『エトセトラ』

 昨日の『吟遊星』第11号「加藤郁乎特例号」で主宰者(編集)の御沓幸正氏は書いている。

《 最後に、江戸戯作文学の伝統を、昭和戯作小説として開花させた小説『エトセトラ』 について少々。(中略)映画化の話もあったらしいこの小説は、馬が居酒屋で演説したり、 人間が茶碗になったり、絵の中に出入りしたりするが、『エトセトラ』の面白さは物語よりも 表現にある。(中略)まさに、無秩序に排列された文学辞典である。 》

 加藤郁乎『エトセトラ』薔薇十字社1972年初版を読んだ。四十年ぶりの再読。文学などの 知層が無駄に堆積した今だからこそ、たいへん愉しめる。

《 書きにくいペンは取り替えることに、馴れ馴れしくなった女とは別れることにしているが、 それでも無駄や無理が出てくる。 》 23頁

《 犯しがたく侮りがたい女を前に、手酌で酔いながら、スコラ哲学者たちも家に帰れば 地獄だったに相違ない、と思った。家に帰るくらいなら、自然に帰れ、と叫びたくもなる わけである。 》 53頁

 老馬のサダキチ氏が語り手と彼女を背に乗せて夜の首都高速道路を新宿へ行く場面は、 記憶に鮮やか。

《 振り返って打ち眺めると、はるかハネダやオーモリと覚しきあたりも南宋画めく墨染めの かたえにミニチュアとかすみ、なんと疑うことやある、われら一行のうしろを数珠つなぎに 一列縦隊となった車のつらなりが見渡せた。それにしても警笛ひとつ咳ばらいひとつ立てずに、 メッカへの巡礼さながらに粛々と、かつ股旅もどきでつづいてくるとは、この国の住人たちの 世界市民性への早身で捨身の順応性にも舌を巻く。 》 124-125頁

《 ボードレール研究の令名高いイソオ・サイトー氏にしてからが、『悪の華』の詩人の かつての居室をパリはサン・ルイ島に訪ねられた折、「とある四辻に立ち、行人を物色すること しばし」のちに、いまは昔のローザン館の名に戻ったピモダン館を探し当てられているくらいだから、 コーエンの聞き違いくらいで目くじらを立てる要なし。 》 128頁

 齋藤磯雄『ピモダン館』!
 http://d.hatena.ne.jp/k-bijutukan/20150414#p1

《 ただひとつ、心残りなのは、この国には、いまだに笑いを不経済に祝福しようとする習慣が ないことでございますな。 》 156頁

《 多すぎる休養は苦痛だとホメロスは嘆いたが、やがて量産されすぎた休養小説に埋まって 圧死するような文化人や書斎派が出てくるだろう。物を読むのも疲れるが、ひとの冗談を読むのも しんどい。冗談と馬鹿噺とをどこで区別するか、冗談の著作権とプライヴァシーの問題など、 ウナギを膝で折るような具合にはいかないからである。 》 193頁

《 「一緒に泣くことほど、ひとの心を結びつけるものはない」とルソーは言うが、泣き上戸と 一緒にでもなって見給え、ワライカセミとでも飲んだ方がよっぽど気が休まると思うに 違いない。 》 194頁

 実感が出ているなあ。やったらオモシロイ箇所は……ここには紹介できん。

《 小説を書いているうちに、主人公たちの生活がうらやましくなりすぎて難儀をした。 》  「後書」

 誰も指摘していないようなので。言葉を話す老馬サダキチ氏のモデルは、サダキチ・ハルトマン (1944年没)だろう。太田三郎『叛逆の芸術家  世界のボヘミアン=サダキチの生涯』東京美術 1972年初版は、『エトセトラ』よりも(文芸誌『海』掲載よりも)遅い出版だがが、この本は、 1962年から1963年にかけて雑誌『俳句』に連載されたものを加筆訂正して成った。

《 サダキチ・ハルトマンは、一八六七年(慶応二年)十一月八日に長崎出島で生れた。(中略) サダキチの父親はドイツ人カール・ヘルマン・ハルトマンであり、母親はオサダという日本女性 であった。 》 3頁

 ウィキには「サダキチ・ハートマン」で記述がある。

 ネットの見聞。

《 日本はアメリカ合衆国内に自衛隊基地をもっていない。日本はアメリカ合衆国から 思いやり予算を貰ってない。日本はアメリカ合衆国内で自衛隊員が有利な地位協定をしていない。 日本はアメリカ合衆国内での制空権を持たない。。。で、自衛隊員の命まで差し出して 「アメリカは同盟国」と胸を張る安倍晋三。 》 徳永みちお
 https://twitter.com/tokunagamichio

 ネットの拾いもの。

《 周囲に「若いころはワルだった」という好々爺が山のように居る。おれの場合 「若いころは真面目な優等生だったのに」。 》