『肉眼の思想』続き

 昼前に墓参り。午後、北里大学の吉川名誉教授とともに、御園にあるグラウンドワーク三島の、薬草三島柴胡 (みしまさいこ)育成地を見に行く。いろいろアドバイスをいただく。数年前に来た時には富士山が見えなかった、 と木々の向こうの純白の富士山を仰ぎ見て仰る。その時には木々の全面に放置竹林が繁茂密集して壁になっていた。 1500メートルの竹林を七年かかけて全部根こそぎ伐採。それにしても、三島柴胡、雑草と見分けがつかん。

 大岡信『肉眼の思想』中央公論社1969年初版、後半を再読。

《 なぜこれがそんなに人の関心をひくのか、といえば、おそらく「新しさ」というもののなかに、不可避的に 「行動」の解決が含まれるからであろう。それは、「何が可能か?」あるいは「何をなすべきか?」という人生の 不断の課題を、何ごとかを実際になしとげるということによって、内面化しつつ解決してゆくことを意味する。 新しさに人々が憑かれるのは、十分に意味のあることなのだ。 》 121頁

《 そして、ここでも問題は、「どんなイメージが」そこにあるのか、というだけではなく、「どこに向って イメージが」つぎつぎに生起しているのか、という点にかかっている。 》 124頁

《 「新しさ」の問題は、「何をなしうるか」にかかわるとさきにいったが、同じ文脈の中で、「新しさ」の問題は 「創造力」の問題でもあると、はっきりいうことができる。 》 130頁

《 画家が戦争画を描くことで戦時体制下の世論操作にある種の役割をはたすことを、ア・プリオリに非難することは できない。ある人間の経験を判断するに当たっては、経験のもつ意味の多様性をつねに予想する必要がある。 》  141頁

《 われわれの心をそそりたて、表現に向かって駆りたてるものは、つねに、限定されぬもの、流動するものの領域に 属している。相手が無限定であるがゆえに、われわれはそれを限定しようとする。これが芸術的行為のすべてに共通な 欲求であり、表現とは限定された手段によってこの無限定性をからめとる過程にほかならない。われわれは、この 無限定性そのものになることはできないので、無限定な内的現象と、限定的な外的手段とのあいだで、忙しく行動する。 その行為が、すなわち芸術と人の呼びならわしているものにほかならない。 》 216-217頁

《 すなわち、世界はわれわれにとって、つねに、見えていて同時に見えないものでありつづける。 》 218

 『肉眼の思想』、いつ読んでも発見のある書物だ。私にとっては名著だ。

 ネットの見聞。

《 もうすぐお彼岸です。仏具はそろっていますか?  》 坊主バー
 https://twitter.com/vowzbar_yotsuya/status/709982393319424001

 出ましたウルトラマン木魚。函南町長光寺で叩かせてもらった。いい音。小体で欲しくなった。

 ネットの拾いもの。

《 日本の全国紙は、水曜日が一番輝いている。
  週刊文春の広告が載るからだ。 》