先月三十日に引用した大岡信の「巻の九 われらの時代の風景画・論」の一部を再掲。1986年の作か。
《 拗ね者のセザンヌには
宮廷のおかかへ絵師の安楽な暮らしはなかつた。
だが彼には
エクスの東に青い裸身を横たへる
サント・ヴィクトワールの山塊を
彼自身の眼で切りとつて
画面の上で風景を思ひのままに哲学する
自由があつた 》
《 われらの時代に
風景画とは何であらうか。
風景画は自画像である、われわれの。
眼はすでに土地の上に一定の広がりを見ず、
内部は外部へ溢れかへる。
欲望のマッシュポテトが
絶望の食卓の脚になつている 》
大岡信のセザンヌ論を検索したが、見当たらなかった。他の人のセザンヌの絵画への論及はいくつも読んだが、 この詩句に比肩する説得力ある論に出合わなかった。『抽象絵画への招待』岩波新書1985年初版にはセザンヌへの言及がある。
《 ゴッホやセザンヌの風景、静物を二十世紀において最もよく継承したのは、クレーやヴォルス、フォートリエや デュビュッフェ、ポロックやデ・クーニングであった、というような考え方が、あながち荒唐無稽とはいえないような 自然観の変化というものが、今私たちの中に生じつつあるといっていい。これらの画家の、微視的な、また 巨視的な画面構造には、二十世紀の自然科学が、天文学から生理学まで、物理学から科学まで、サイバネティックスから 位相幾何学まで、その総体において達成した自然窮理の一段階の、正確な造形的対応物があるといえるかもしれないのである。 》 99-100頁
世紀末に書いた拙論「呉一騏 水墨画の21世紀へ」でセザンヌに言及。私的セザンヌ論でもある。
http://web.thn.jp/kbi/go3.htm
《 能産的自然natura naturansは、自然界の根源的な「生成力」「形成力」であり、その力は、まさに「人間」 のうちにも流れているのである。それゆえ、現代の絵画は、人間自身の生成力、形成力の自己証明であるような 絵画をめざす画家たち、形の彼方のフォルムを追求する画家たちを、必然的に生むことになった。 》 101頁
3月21日にも引用した能産的自然という視点。大岡信の芸術観の要諦だろう。
新聞朝刊、地元の記事に洋菓子の新商品の紹介。由布院のジャズ羊羹にそっくり。稀な偶然か。
http://www.jazz-youkan.com/
ブックオフ長泉店で二冊。『太宰治全集1』ちくま文庫1996年4刷、ジャン・ジュネ『花のノートルダム』河出文庫2008年初版、 計ニ割引172円。
ネットの見聞。
《 Sky Magic Live at Mt. Fuji 》
https://magic.microad.co.jp/skymagic/movies/movie2-fuji.php
《 弱者が「優遇」されていると思う人がいるが、それは違う。そもそも差別され、大きな格差があり、 「冷遇」されている状態にあるので、それを「是正」しようということに過ぎない。それを「おまえらだけいい目に遭って」 と僻む強者、恥ずかしい。 》 寮美千子
https://twitter.com/ryomichico/status/727370180938989568
《 これだけある「緊急事態条項」の問題点。IWJ 岩上安見氏 》 文鳥さん
https://twitter.com/komatsunotsuma/status/727337230067322880
《 こうなると選挙では改憲についてはダンマリを決め込み、知らん顔で当選を果たした後に「国民の付託を受けー」 とか言い出すのが現政権。 》 清水 潔
https://twitter.com/NOSUKE0607/status/727326435602370561
《 もちろん少なめの額を提示して国民を引っ掛けたのである。しかも最初に試算した東京五輪・パラリンピック招致委員会は すでに解散している。責任を取るべき存在はすでになくなっている手回しの良さだ。 》 兵頭正俊
http://m-hyodo.com/usa-85/
ネットの拾いもの。