「授記」「観音」

 道元『現代語訳 正法眼蔵 3』大蔵出版1995年2刷、「三ニ 授記(じゅき)」を読んだ。解説から。

《  ところで、表題の授記というのは、仏が修行者に対して、お前はいつの時期に成仏するであろうと、予言して成仏の保証を与えることである。これが、授記の 一般的な意味である。しかるに道元は、「授記を得た後に仏になると学んではならない」という。つまり道元は、授記の一般的意味を否定していることになる。
  では、道元において授記とは、何を意味しているのであろうか。この巻を訳し終って、私の理解する所を一語にしていえば、次の如くなると思う。すなわち、 仏から授記を受けたとき、私のなかに成仏への希望が生じ、何ともいえぬ、私ならぬ大きな力が生ずる、その力を指して授記と称しているということである。 》  「授記」解説 215頁

《 このようにして、先程触れたように、道元が、この巻の結びとして、「授記とは、生きとし生けるもの、ありとあらゆるものをあらしめるもの」、別言すれば、 すべてのものを支える根拠であり、力であるということが、おのずから通じてくる。 》 「授記」解説 218

《 このように、内外からおこる授記の道理を学ぶためには、授記そのものから学ぶべきである。授記を学ぶ道は、どこまでも続く一枚岩である。授記における 真実の禅定は、一刹那が同時に永遠である。 》 「授記」 231頁

 うーん、わからない。仏道のことは衆生にはわからん。成仏、お陀仏……。

 「三三 観音」を読んだ。解説冒頭。

《 この巻は、うわべはやさしそうで、なかなか分かりにくい巻である。 》 「観音」解説 249頁

 そのとおり。

 朝、グラウンドワーク三島事務所で、三島市立錦田小学校六年生たちから源兵衛川のことでインタビューを数人ずつ数組受ける。最後の組は集合まで時間があるので、 付添の先生も知らない、魚の群れている場所を案内。先生児童、興味津々。午前十一時過ぎ帰宅。着替える。
 午後、友だちと待ち合わせ、沼津市庄司美術館へ。

 ネット、いろいろ。

《 ただし未熟な造形作家は、事物を使って自慰をしてしまう。すなわち自らの企図によって、事物に自らのイメージを押しつけてしまう。 一方で成熟した造形作家であれば、事物に沿って、事物がなりたがっている様態へと補助していく。この作法は、美術のみならず、教育においても、 恋愛においても変らない。 》 中島 智
 https://twitter.com/nakashima001/status/1014087380179943425

 白砂勝敏さんの木彫椅子作品への私見「見出された、かたち」。
 http://shirasuna-k.com/gallery-2/wood-sculptures-chair/

《 本当に頭のいい人の書いた本や論文読んでわからんと唸ってる 》 セミ
 https://twitter.com/mi8pe/status/1013265941537288194