『新・空海論』五(閑人亭日録)

 竹村牧男『新・空海論』 仏教から詩論、書道まで』青土社2023年6月30日第1刷発行、「第五章 十住心の思想」を読んだ。

《 涅槃に入ることは仏教の一大目標のように思われるかもしれませんが、前の声聞乗のところでも述べたように、そこには何の活動もないわけで、果たしてそういう世界が我々のいのちの究極の目標なのか、疑問でもあります。小乗仏教の声聞や縁覚ではなぜそういうことになるかというと、彼らは我執しか問題にしていないからなのです。しかし大乗仏教の立場から見ると、人間は我執だけではなくて、いわば物質的・心理的等の諸法に対する執着、法執もあるではないか。その法執を断つことによって、智慧が実現するといいます。
  しかもその智慧が実現したときには、たとえ生死輪廻の世界であっても空性そのものの世界であることを洞察して、特に捉われることもなく邪魔されることもなく、自由自在に地獄、餓鬼等の六道の世界に入って行って活動することができるようになります。こうして、生死のただ中において自由自在に活動して、しかもその活動のただなかに寂静なる世界、空なる世界としての涅槃を見出すことができるようになるのです。 》 205頁

《 このように、現象世界と本性の世界との相即も、唯識思想は説くのですが、しかし有為法と無為法とを融即させて語ることはしません。真如(無為法)と智慧(有為法)とは、あくまでも別のものなのであり、理智隔別の立場に立ちます。
  以上に知られたように、唯識思想はきわめて高度な哲学を展開するものなのですが、空海によれば、大乗仏教の中では最初の段階に位置づけられています。それは、すべての実体的存在を否定しても、識については残していることが問題とされるということなのでしょう。加えて、真如と智慧との厳然とした区別を説くこと、またすべての人間が大乗仏教の道に入って、菩薩として修業して仏となることが出来るとは限らないと説くこと(三乗思想の立場)なども、低く評価される理由になっていたのかと思われます。 》 208頁

《 華厳宗では、四法界の説を説きます。四法界とは、「事法界・理法界・理事無礙法界・事事無礙法界」というもので、事法界は個々の事物の世界、現象の世界、諸法の世界です。理法界は諸の事物の本性の世界、法性=真如の世界です。理事無礙法界は、理と事、本性と現象、真如と諸法が融け合っている世界で、『般若心教』の「色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是」の世界、つまり五蘊即空性・空性即五蘊のところを言ったものです。
  さらに事事無礙法界は、その空性である本性を通じて、事物と事物とが無礙に融けあっている世界です。 》 214頁

《 この「如来蔵不守自性」が、「真如不守自性」ということであり、随縁して諸法となることを意味しています。ここに、事事無礙法界が広がるのです。そこでのある事と他の事との関係を、華厳宗では「一入一切・一切入一、一即一切・一切即一」であり、重重無尽の縁起をなしていると説明しています、(引用者・略)このように空海は華厳思想の核心を「真如法界不守自性随縁」に見て、華厳に相当する「極無自性心」の語の意味は、そこにあると示しているのでした。
  そううすると、「法界は極に非ず、警を蒙って忽ちに進む」は、単なる絶対の世界に留まることなく、現象の世界、現実の世界に出てこなければならない、という意味になるでしょう。お覚りの世界に安住してその法悦を味わっているのみでは、鬼窟裡の活計になってしまいます。現実の世界に出て苦しんでいる衆生のためにはたらいてやまないのが大乗の仏教だということでもあるでしょう。華厳仏教は菩薩道の実践の道でありますが、それには上り道と下り道とがあるのです。 》 215-216頁

 この章もまた、難解の山。険しいわ。何とか読んだだけ。

 晩、友だちと白滝公園へ灯籠流しに行く。例年になく多い人出。桜川に浮かぶ灯籠は静かに揺れて流れる。