『唯識・華厳・空海・西田』再読十三(閑人亭日録)

 竹村牧男『唯識・華厳・空海・西田』青土社2021年4月30日第1刷発行、「付篇 鈴木大拙の華厳学 霊性的日本の建設」を再読。

《 事とはもろもろの事象・事物、理はそれらの一切を貫く究極の普遍のことで、仏教では空性ということになる。その空性そのものを、別の言葉で法性とも真如ともいうが、変わるものではない。また、事は相対、理は絶対ともいえるであろう。仏教では、諸法とその法性とは、不一不二である。そこを『般若心経』は、「色即是空・空即是色、 愛想行識、亦復如是」というわけである。華厳ではここを理事無礙法界という。絶対と相対が融け合っているところと言えるであろう。ここまでは、西洋でも説かれないことはない。ヘーゲルの哲学に、そうした趣旨を見出すこともできるようである。
  しかし華厳思想では、理は空性であるがゆえに消えて、さらに事事無礙法界に進んでいく。事と事とが無礙に融け合うというのである。例えば、松は竹であり、竹は松であって、しかも松は松、竹は竹だという。私は汝であり彼・彼女であり、汝や彼・彼女は私であって、しかも私は私、汝は汝、彼・彼女は彼・彼女だというのである。このことが成立するのは、究極の普遍(絶対者、神)が、空性そのものであるからである。このような、事事無礙法界の思想は、もはや西洋には見られない。東洋の仏教の精華であるという。このような立場から、大拙は華厳思想を高く評価するのであった。 》 328-329頁

《 自他を超えるものの中に包まれていて初めて自他であるという。そのことが認識されたとき、自己は自己のみで成立していたという考えは否定され、すなわち自己が否定されることになる。この否定を経て自己を超えるものに生きるとき、そこにおいて成立している他をも自己と見ることになろう。あるいは、自己に他者を見、他者に自己を見ることになる。これは事事無礙法界の論理であり、その事事無礙ということを人人に見た場合のことに他なるまい。相互に人格を尊重しあう世界は、こうして仏教の華厳的世界観から説明されるのである。 》 332-333頁

 竹村牧男『唯識・華厳・空海・西田』青土社。再読終了。最後の「付篇 鈴木大拙の華厳学 霊性的日本の建設」からは大いなる示唆を受けた。西洋・日本の近代・現代の美術の「歴史」に違和感というか、胡散臭い感じを抱いている。その美術史は何か違ってはいないか?というすっ飛んだ疑問を最近、特に感じている。そんな近代・現代美術の「歴史」には関わりなく、優れた作品があるはず、あるに違いない、と思うようになった。
 そんな思いを明確に抱くようになったのは、去年の秋、山梨県立美術館で出合った縄文土器の瑞々しく強靭な生命力漲る表現に衝撃を受けてから。特に深鉢。
 https://www.art-museum.pref.yamanashi.jp/exhibition/2022/650.html
 近代・現代を震撼させるこのような凄い土器がどうして制作されたのか? さまざまな疑問~関心事が湧いてきた。それは今も続いている。縄文時代の社会構成、人間関係を土台にしてこれら土器は制作された。その制作者の心は? 当て推量、推測だけで、当然結論は出るはずがない。が、今回、上記引用でなんとなく近づいた気がする。縄文は事事無礙法界の集団社会。