『唯識・華厳・空海・西田』再読八(閑人亭日録)

 竹村牧男『唯識・華厳・空海・西田』青土社2021年4月30日第1刷発行、「第四章 華厳の哲学(二) 華厳唯識の逆説的展開」を再読。

《 おそらく、我々は仏にならないまでも、自己の存在の内容は、自己自身と自己が住む国土と、その国土に住むあらゆる他者とのすべてを内容としていよう。あらゆる他者もその住む国土も実は自己なのである。このことが実現しているのも、人人唯識で各人が唯識であるからであろう。ここからは、密教曼陀羅世界にごく近いのではなかろうか。 》 139頁

《 仏教では、絶対は絶対のままにとどまるわけではない。絶対は絶対としての自体を否定して、相対に翻るのである。この、本性は「自性を守らず、縁に随って」諸法として現象するという考え方は、実に仏教哲学の核心と言うべきであろう。それは、絶対が有ではなく、空性だから可能なのである。こうして、現象と真性とは、不一不二の関係になる。華厳思想の事事無礙法界の根本には、この真如不守自性の理路があるのである。 》 152頁

《 理性とは、真如=法性=空性のことで、究極の普遍である。それは、あらゆる現象に行き渡っているものである。この理性を通じて、個々の事物も、互いに融け合い、妨げ合うことがない。まさに事事無礙法界である。そこで、「一入一切・一切入一」ということになる。この入の語が用いられるのは、用に関してなのであった。あらゆる事物の作用が相互に鎔融無礙となるのである。 》 156頁

《 ここも理を通じて事事が無礙となっていることを明かしている。そこをこの門では、「一即一切・一切即一」で表している。即の語は、体に於ける関係に用いられるのである。 》 157頁

《 かの「空即是色」を華厳の思想で表現すれば、理事無礙法界といえる。空(空性)は真如・法性のことでもあるが、それを理(理事)という。もちろんその色は五蘊(色・受・想・行・識)の代表で、事(事象)のすべてを意味している。ゆえに「空即是色」は、理事無礙法界にほかならない。 》 160-161頁

 「第四章 華厳の哲学(二) 華厳唯識の逆説的展開」を再読終了。少しはわかったような、やはりまだわからない。

 友だちは私に「棄却王だね」と言う。たしかに。三島市制五十周年記念全国公募論文テーマ「これからの三島市のまちづくりについて──市制百周年に向けて」へ応募した論文は、それを担当していた知人の市職員が当時の店に来て「君のが一番だ」と興奮気味に話した。一等は賞金30万円。思い浮かべてニヤリとしたが、結果は特選でも入選(三作)でもなく佳作(五作)。知人は謝りに来た。平成三年三月に出た『記念論文集』が数冊届いたので、再開発の会社を経営している知人に送ったところ、特選論文は、地名を変えればどこでも通用するシロモノだ、審査員は目がないねえ、と言ってきた。
 http://web.thn.jp/kbi/mizutomidori.htm
 それから三十年。いろいろなことがあった。三島市の『文芸三島』に「よそ人三島見聞記」なる文章を応募したが、落選。生真面目なモノしか受け付けないと知った。これは文章だが、では、美術で同様のことをするぞ、と企画したのが、「三島ゆかりのアーティストたち」展(仮題)。去年の10月に三嶋大社宝物館ギャラリーを借りる手続きをした(2023年11月28日~12月3日)。年賀状にその企画を記したが、なんと今春、楽寿園にある郷土資料館で「三島ゆかり文人たち」が催された。 https://www.city.mishima.shizuoka.jp/media/15020210_pdf_2023210_rad4A7DA.pdf
 友だちと見に行った。拍子抜け。こちらは二十人ほどのアーティストだい。その多くはまず知られていない人。今月からチラシ(A4版)のデザインの作業に入った。K美術館同様、すべて自前の資金で行なう。作品を借りる一人には使用料を払う。金のことで誰からも文句は言わせない。笑われてもどうってことない。笑われる・・・K美術館の時にはよく(嘲)笑われた。作品の良さは、三十年経てばワカル、と自負していたが、小原古邨のように『日曜美術館』で一気に人気沸騰。三島の美術館まで巡回。
 https://www.sanobi.or.jp/exhibition/koson-ohara_2022/
 味戸ケイコさんは、椹木野衣・編集『日本美術全集 第19巻 戦後~一九九五』小学館2015年8月30日初版第一刷に収録された200点の150番(発表順)に選ばれた。
 以上、つまらぬことを書いたが、にわかに風雲急を告げ、雷鳴豪雨。おお~。