『新・空海論』十(閑人亭日録)

 竹村牧男『新・空海論』 仏教から詩論、書道まで』青土社2023年6月30日第1刷発行、「第九章 空海の詩の宇宙」を読んだ。

《 こうして空海は深い無常観から、世間世俗を超脱して、仏教にこそあかされていると考えられる究極の真実に向かうことになるのです。 》 390頁

《 三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲せることを識らず、
  生れ生れ生れ生れて生(しょう)の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥(くら)し。 》 390頁

《 この最後の二行は、我々凡夫の、果てしない生死輪廻の闇路にさまよう姿を想う深い悲しみがよく表現されています。空海は、このような苦悩を、他人の事として語ったわけでもないでしょう。むしろ自らの身の上に、その苦悩を確かに見つめていたのだと思います。それは世の無常ということへの深い問いとなったのであり、その自己凝視をふまえて、仏道に深い覚悟をもって進んでいくのでした。 》 391頁

《 一方、『声字実相義』には、「声字実相頌」とでも呼ぶべきものがありました。次のようです。

  五大に皆な響きあり、十界に言語を具す
  六塵に悉く文字あり、法身は是れ実相なり。

  これらの詩にも、わずかな語句の中に密教的世界観が見事に示されています。その際、「即身成仏頌」の「六大」とは元素のことではなく法界体性(の諸徳性)のことなのであり、「声字実相頌」の五大とは、「五字五仏及び海会の諸尊」のことなのであり、空海はこれらの詩において巧みに暗号を操っていると言えるでしょう。 》 408頁

《 仏教では、幻や夢等を、実体はないが現象している我々の世界の譬喩としてよく用いています。 》 409頁

《 ここに、「即不思議」の立場に立った譬喩解釈があると言えましょう。空海の透徹した覚りの眼と、言語表現を操る卓越した技量とを、ここにも確認することができます。 》 413頁

《 すなわち、人々の心を導くには、明確な言語表現に基づく文章によることが根本であると説くのです。空海はこのあと、「文章の義は、大いなるかな、遠いかな」とも歎じています。
  このように空海は、高尚な言語がいかに大き力を持っているか認識していました。そのような立場から、空海は多彩な中国古典の五句文章ならびに古今の仏教経論に基づいて、高い品格を湛えた文章を造出するのでした。 》 414-415頁

《 一方、問題は詩の基となる、その志の内容でしょう。空海の場合、それはまったく内的な思想上のみのものなのではなく、むしろ実際に五感において感得したもののことのようです。 》 416頁

《 ゆえに、詩には身体性が求められることにもなります。詩情は抽象的観念のみに拠るのではなく、自然(環境)に身体を置いて、その心と物の交渉の中に発するものなのです。 》 417頁

《 密教顕教と異なる仏教である主要な要素に、「法身説法」ということがあります。顕教では、自性身・受用身・変化身、すなわち法身・報身・化身の仏の三身のうち、報身の中の他受用身や化身は説法するが、法身は説法しないとしている、と空海は言います。 》 419頁

《 しかし密教は、いわば大日如来自身が説法するというのです。 》 420頁

《 大日如来は、本来、常恒に、三密を発揮しており、それがその説法であるということです。とすれば、たとえば身密において、我々凡夫には知られないあり方で、仏身・仏国土を現じていることも、大日如来の説法であるということです。 》 420頁

《 大日如来は無数の眷属と共に、もとより常恒に自受法楽の活動として身・語・意の活動をなしており、そのことがわれわれのいのちの根底にあるということです。その中、身の活動とは、一定の国土における個体の活動を意味し、語の活動とは表現作用の一切を意味し、意の活動とはその表現を主導する精神的な活動の一切を意味することでしょう。こうして、実は我々の住まう国土も、その根源においては大日如来の三業説法を基盤としているということなのです。もっと簡単に言えば、本来、我々の自然環境は、大日如来の活動そのものであるということです。 》 421頁

《 ここに、言語はいわゆる音声言語のみでなく、あらゆる物質的・心理的活動そのことにあるとの独自の見方が披瀝されています。 》 422頁

《 ややむずかしいことを述べましたが、要は、山水の自然は、凡夫には知られないとしても、実はそのまま大日如来の活動そのものだということです。道元が、「而今の山水は古仏の道現成なり」(『正法眼蔵』「山水経」。道は言うということ)と示しているのと同じことと見ることもできるでしょう。空海は、仏道修行すなわち禅観を深める中で、その山水の声を聴いていたのでした。 》 423頁

《 このように、自然(六塵)が真実を語っている(説法している)ということを、空海は確かに明かしています。ここに空海の詩の根源があると思うのです。 》 424頁

 この章はこれまでで最も心躍った。