『新・空海論』六(閑人亭日録)

 竹村牧男『新・空海論』 仏教から詩論、書道まで』青土社2023年6月30日第1刷発行、「第六章 真言密教とは何か──顕教密教」を読んだ。

《 空海の仏教は、密教と呼ばれる仏教であり、宗派の名前は真言宗と言います。この真言とは、一体どのようなものを意味しているのでしょうか。本章では、「果分可説」(仏の覚りの世界も説ける)、「法身説法」(報身や化身だけでなく、法身も説法する)を標榜し、真言という言葉を提示する空海の言語観を探り、合わせて顕教密教との関係を見究めてみたいと思います。
  まずは密教という仏教の特質について、概観しておきましょう。それは言うまでもなく、秘密の仏教ということですが、何かを隠している仏教という意味ではありません。むしろ秘密になっている世界を解き明かす仏教であると言うべきでしょう。基本的には、凡夫にとって知り得ない世界を、明かるみにもたらす仏教ということです。 》 230頁

《 このように秘密の語には、重層性と究極の世界とが込められていることを理解すべきでしょう。仏は、その最奥の世界を、隠し続けようとするわけではありません。むしろその世界を、独特の方法で明かそうとするのです。 》 231頁

《 そうすると、秘密とは端的に言って、仏の覚りの世界ということになります。ただ顕教で説く覚りの世界よりもさらに深い覚りの世界があるとも言います。密教の内実はそこにあるのであり、そうした覚りの世界が、何かおどろどろしい世界であるはずがありません。 》 232頁

《 ここから一般には、顕教は歴史上、インドに現れた釈尊の説法、密教大日如来自身の説法、と見なされています。教法を説く主体やその説法の言語のあり方によって、顕教密教の区別が示されます。また密教の説く所は「三密門」であり、それは「如来の内証智の境界」と指摘されていました。密教の仏が自らの内に証している覚りの世界は、三密の活動にあるということでしょう。密教は、この世界を大日如来の特に自性身・自受用身が説いたものなのだというのです。 》 234頁

《 『弁顕二教論』は、顕教密教の違いを明らかにしようとするものですが、密教の経典の特徴として、「果分可説」ということと「法身説法」ということをあげています。(引用者・略)
  この果分可説の果分とは、仏果、すなわち修行して成就した覚りの智慧(菩薩)において見られている世界のことと言えるでしょう。顕教においては、その究極の真理は、言葉では表現できないと言います。華厳宗でさえも、「因分可説、果分不可説」というのです。仏果に至る修行の道すじ(因分)については言葉で説けるけれども、仏の覚りの世界(果分)は、もはや言葉では説ないというのです。しかし密教では、この果分も可説であると主張します。(引用者・略)
  そこには、果分でさえも説くことが出来るような、独特な言語があることが予想さるでしょう。それは、どのような言語なのでしょうか。(引用者・略)
  密教の説法(経典)の言語は、われわれが用いている言語とさほど変わらないようでいて、実は独自の特質を担った言語であることを理解すべきです。》 235頁

《 言葉には、真実(義)を語るものがあるのだ、といいます。それは、「実空にして不空なり、空実にして不実なり」という、否定と肯定を同時に語るような言葉です。たとえば、「色即是空・空即是色」の一真実を、色と空に分けて説くのではなく、一語にして(あるいは時に一字にして)説くような言語があるのだというのです。しかも、「二相を離れて中間にも中(あた)らず」です。否定にも工程にも関わらず、その中間にも当たらない言葉だと言います。真実が真実のままに露見しているような言葉なのでしょう。 》 236頁

《 さらに、密教における言語は、それぞれ多彩・多重の意味を担っているといいます。(引用者・略)しかし真言においては一語や一文も多義的であり、のみならず、実は一字(各母音・子音)でさえ多義的な意味を担っていると言うのです。 》 242頁

《 句ないし文章に実は無辺の意味があり、単語一つにさえも無辺の意味がある、のみならず、一字においてすら意味があるというのです。 》 243頁

《 ある意味で、戯論寂滅の世界への別様の近接(アプローチ)です。世界のリアリティそのものを体得する一つの道です。 》 245頁

《 そこで、このような密教独自の言語の理解に関して、空海は、「字相」と「字義」の違いをよく理解しなければならないと、再三、訴えています。
  すなわち、一語に一つの意味を見るのは、世間的な言語においてであり、そのおゆに言葉を見る立場を「字相」と言います。語の表面的な意味しか取らない立場です。これに対し、一語に多義性を見、表面的な意味だけでない、隠れた深い意味を汲み取る立場を「字義」といいます。真言密教の教えや空海の著作を読む場合には、この字義の立場に精通しなければならないのです。 》 245頁

《 とすれば、密教の経論では、言葉が暗号、密号(同語異義を表す語)において用いられていることがあることをよく理解して、その上で読むことが求められるわけです。 》 246頁

《 この不可得ということは、ある事象の実相は対象的に分別してとらえることができないということを意味しており、その根底に本未生(本来、不生)ということがあります。本未生においてしかも事象として現前しているわけで、その「不可得」という語は、いわば「色即是空・空即是色」を一挙に同時に表していることになります。 》 247頁

《 こうして、名や句・分の地平のみならず、母音・子音の地平において、その一つひとつに無辺の義を具しているような言語が、密教独特の言語なのであり、その言語を用いて真理を語るものが真言の教法なのでした。 》 252頁

《 ともあれ、空海の世界観の中では、「身語意平等句の法門」の「平等」の語には、自己の三密と諸仏・諸尊・諸衆生のあらゆる他者の三密とが「互相加入、彼此摂持」している事態が意味されているのです。この「平等」の語は、そこまでの拡がりにおいて了解されるべきものだと思うのです。 》 281頁

《 このような世界を、空海は自性身説法と呼んだのでありました。古義にいう本地身説法とは、このことに他ならないと私は考えています。また、それこそが空海顕教ではありえないという「法身説法」の内実なのだと思われるのです。 》 281頁

《 いわば根源的な仏が永遠の今に立ち、常恒に身・語・意の三方面にわたって、他の諸仏・諸尊ないし諸衆生の三密と交渉しつつその力能を発揮していることが、法身説法ということなのです。しかもそれこそが、「秘密荘厳住心」であり、「秘密曼陀羅」であるということでしょう。 》 283頁

《 ということは実に逆説的ですが、顕教にこそ価値があるということでもあります。実はそういう視点も、密教においてはありうると受け止めることも、大変、重要なのではないかと思うのです。 》 287頁

 難解の山はまだ続いていた。この山は何階あるのだろう。
 毎日暑いが、きょうは猛暑日。さすがに暑い。エアコン28℃設定でえらく涼しい。