『新・空海論』八(閑人亭日録)

 竹村牧男『新・空海論』 仏教から詩論、書道まで』青土社2023年6月30日第1刷発行、「第八章 密教の行の諸相」を、午後、古い漫画雑誌『ガロ』を見る来客があり、時間を取られ、少ししか読めなかった。

《 まず、密教の観法として有名な「阿字観』についてです。 》 348頁

《 阿字を観察する行者は、初めの頃は、心の本質・本性というものを少しでも明らかにし、その後、それを次第にさらに深めて行って、ゆくゆくは完全に心の本来清浄なる智慧としての姿をすっかり明らかにして、そして「無生智を証」します。無生とは生まれないということですが、むしろ対象的に生まれる・生まれないというその判断にかかわる以前と言いますか、そういう対象的判断が払われた、本来息づいているそれそのものの世界のことです。主体が主体のままにあるその世界そのもの、そこに不生という世界があるのです。その智慧を証するのだと言うのです。
  なぜ阿字を観察するのかというと、「阿」は、あらゆる現象は本来不生であることを表しているからです。我々が分別する以前に息づいている世界そのもの、真理そのものの世界を表しているからです。 》 349頁

《 こうして阿字を観察するとはどういうことかというと、欠けるところがない、浄らかな心、いわゆる大円鏡智とか法界体性智とか言われる、心の本体そのものを観察するということです。 》 350頁

《 凡夫の日常の行為は三業と言います。身・語・意の三業です。(引用者・略)仏教では行為について、身体の行為、言葉の行為、心の行為と、三つの方面で見ているわけです。密教では大日如来のその三つのはたらきを、三密と呼ぶわけです。なぜ業と言わずに密というかといいますと、それは、一般の衆生はもちろん、大乗仏教で相当高位に上った菩薩でも真に見聞することはできないからです。 》 352頁

《 こうしてここでの三密とは、要は印を結んで、真言を唱えて、三昧に住する、という行のことです。(引用者・略)このことを行じますと、大日如来そのものの身・語・意のはたらきと一体化していくのです。ここを「入我我入」と言ったりします。大日如来の中に自分が入る、自分の中に大日如来が入ってくる。そして一体化して、即身成仏する。これが三密行です。 》 353頁