『新・空海論』九(閑人亭日録)

 一昨日、18日のブログに書いた疑問の返答が、青土社から届く。

《 著者の先生にも確認をいたしました。

  無量寿如来阿弥陀如来と同じもので、無量寿阿弥陀とお考えいただければとのことでした。
  ただし、掲載した「中台八葉院の構造」の図のなかには「無量寿」とあり、本文には「阿弥陀」と記載したことは、
  読者の方に不親切な記載だったと感じております。たいへん失礼をいたしました。 》

 竹村牧男『新・空海論』 仏教から詩論、書道まで』青土社2023年6月30日第1刷発行、「第八章 密教の行の諸相」を読んだ。

《 つまり、一定の相を取らなくてもすべての行為が真実そのものだというところを、無相の三密というのです。この場合、一定の印契・真言ばかりでなく、一切の相を具し、相として具せぬは無いから無相の三密というのだとのことです。これに対し、身に印を結び、口に真言を唱え、心は三摩地に住するのは、一定の型を取るもので、有相の三密です。また、衆生にも四種法身が内在していて、そこに仏の三密がはたらいているとき、仏と衆生の区別はなくなります。 》 356頁

《 密教の世界では、誰もが大日如来となり、四種法身を成就するのです。その誰もが、等しく、刹塵、すなわち国土を塵にすりつぶしたその塵のまずほど莫大な量の三密を具えているといいます。 》 356-357頁

《 無相の三密の立場からすれば、日常いつでも仏の三密と相応していると言えないことはありません。そこに「法爾加持」というものがあるのです。しかし身に印を結び、口に真言を唱え、心は三昧に住するという、有相の行を修することによって、より速やかに諸仏と感応道交している自己に気づくことができるでしょう。これは「修生加持」というそうです。のみならず、この行法を通じて、「早く大悉地』を体得することができるのだと言います。 》 358-359頁

《 加持とは「互相加入・彼此摂持」と言われていたわけですが、これを別の観点から、加は如来の大悲、持は衆生の信心と説明しています。 》 361頁

《 如来衆生(行者)にはたらきかけるのを加、衆生がそのはたらきを感得するのを持、といいます。 》 361頁

《 そこでは多であり、個々別々なのですが、と同時に法界体性という、心身の根底の根源的な世界は一体平等無差別でもあります。こうして、一にして多、多にして一で、まさに曼陀羅のような世界が自分自身の中に自覚されてくるのだと思われます。 》 369頁

《 今が過去にも未来にも広がり、過去が未来になり、未来が過去になると、自由自在に時が響き合う、融け合うことになります。そこは直線的な時間の流れの区別というものが超えられている覚りの世界です。 》 370頁

《 諸衆生の行為、世界だけではなくてさまざまな世界の国土、菩薩らの修業の様相、諸仏の姿のすべてが、その心中に現じます。これはやはり五相成身観を完全に修めた行者の心の中に、智慧の中に、現れてということでしょう。そこにおいてその一切は、自己であると覚証するのです。 》 370-371頁

《 この時、みずから大日如来そのものであったことを証して、そして「普賢の一切の行願」を満たします。 》 371頁

 なんか量子論の世界のような。
 梅雨明け。