『空海論/仏教論』二(閑人亭日録)

 清水高志空海論/仏教論』以文社2023年4月20日 初版第1刷発行、昨日のおさらい。

《 清水 結局、二項対立の問題というものがそもそも難しいんです。二元論というのは、いわゆる排中律が成立するときに否応なしにそれが成立するのであって、たとえば、丸い個物が「丸いもの」というグループに入る、というのだったら「四角いもの」にはもう入らないわけですね。つまり、どちらかになって中間が排除される。(引用者・略)それは普遍的、一般的なものに個別なものが含まれるという方向で考えたときにそう言えるのですが、具体的な個別のものが異なる普遍的性質を持つことは可能であろうと。インドの論理学では、この区別がすごくはっきりしていて、否定形になった場合に排中律にしたがって逆のことが肯定される否定(相対的否定)と、ただ否定されるだけの否定(絶対的否定)というものがある。「これは壷である」というのと「壷がある」というのは違うんですよね。否定形にすると前者は相対的否定、後者は絶対的否定になる。「百合は花である」というような、個別のものを一般のものに含めていく分類的な「判断」を論理的であるとする西とは逆に、インドの論理学は一般的な性質を個物の属性というかたちで個物に含めていという立場を採りますね。 》 27-28頁

《 清水 ダルマ(属性)とダルミン(基体)の話ですよね。先のような問題をダルマ、すなわち個物の属性という側から考えていくというのがインドの考え方。(引用者・略)後期プラトンでは、こういう排中律の問題を考えて、イデアというのは「大そのもの」とか「小そのもの」だというけれど、普通のものは大であるとも小であるとも言いうる、中途半端になってしまうのはどう考えたらいいんだろう、と。 》 28-29頁

《 清水 仏教ではよく「離二辺の中道」という形で説かれている、テトラレンマという発想があります。これは伝統的に四句分別(しくふんべつ)ともいいますが、インド人が非常に古くから用いてきた独特の論理のあり方ですね。「Aである」とか「非Aである」とか「Aかつ非A」、ある命題Aについて、そこから考えられる命題を四つ列挙していくわけです。これを順番に第一レンマ、第二レンマ、第三レンマ……と言いますが、西洋では第一レンマとその否定である第二レンマを考え、第三レンマは排中律によって否定されるわけですね。ところがインドでは、第三レンマはおろか「Aでもなく非Aでもない」という第四レンマというものまで定義しようとします。 》 31頁

《 亀山 ヨーロッパの二元論が何で駄目かというと、結局複数の二項対立関係が固定されているために、それらが閉じない、たんなる開いた過程を描くことで終わったり、二項対立の一方の側に他の側が還元されるかたちになったりしてしまう……。
  清水 どちらかの方向に回収されていく。それは「含むもの/含まれるもの」の関係が一方的なんです。
  亀山 たとえばさっき主客の二項対立、主体と自然があったら、自然はあくまでも主体にとっての対象というあり方に回収されてしまう。
  清水 それが還元ということですね。 》 39頁

《 清水 ある結果が、他のなんらかの原因から生じると言ってしまうと、そうした他因は無限遡行になるからいけない。吉藏はこれを、「無窮になる」と言って拒絶した。なので、なんらかのものに自性がある(自己原因である)というと、縁がいらなくなって、無因論になると。だから、縁起が無窮にならないためには、縮約が生まれないといけない。こうした縮約をもっともシンプルに定義して、Aと非Aだけで作ってしまったのが、仏教で言う「相依性(そうえしょう)」ですね。「Aがあるから非Aがある、非AがあるからAがある」「Aがないから非Aがない、非AがないからAがない」……。 》 59頁

《 清水 そう、何らかの様態や属性にたいして、それが属する主語を立てて納得してしまうと、駄目なんですよ。そんな風に主語を立てて、そういう主語があるから当然そういう様態なのだ、とその様態の原因を主語の側に帰してしまうのは、項に「自性(じしょう 自己原因性)があるということを認めて、そこからボトムアップで考えることになるので、逆にこの自性がないということが、無自性で「空」ということなんです。 》 80頁

 後半の「第二部 『吽字義(うんじぎ)考』」を少し読んだ。