『激しい生』二(閑人亭日録)

 トリスタン・ガルシア『激しい生──近代の強迫観念』人文書院二〇二一年九月三〇日 初版第一刷発行、「3 概念──「すべてを強さ=激しさのなかで解釈しなければならない」」を読んだ。

《 十九世紀の、とりわけドイツのヨーロッパ哲学に現れたこうした強さ=激しさの概念は正確には何なのでしょうか? これは還元不可能な特質がもはや改善すべき欠如ではなく、擁護することが問題である性質としての強さ=激しさの表象です。強さ=激しさは平等に、より多いより少ないの観念と、質的な変化と、電流の望ましいイメージの連合として、ある形而上学的概念になったのです。(引用者・略)強い=激しいものの量への還元不可能性が、もはや欠陥ではなく、幸運と思われるほどに。 》 61頁

《 何の領域であれ、「強さ=激しさ」は区別可能な複数の部分の総体ではなく、ある全体を指し始めます。(引用者・略)強さ=激しさは特異なものと、その内的な変異の計測なのです──これに対し、科学は複数回生じるすべてのものの一般性と、反復されるすべての一般性と、その諸法則の経験の認識とモデル化に身を捧げているのです。
  かくして強さ=激しさは、すぐれて例外的なものとみなされるようになります。強い=激しいものは世界の合理化の理性によって例外化されるものであり、特異で親密な知覚に委ねられるものなのです。 》 62頁

《 間違いなく、強さ=激しさという近代的な概念の力は観念と電気のイメージの想像を超えた結びつきに関わっており、観念に一種の野蛮さを、尊大で飼い慣らすのが難しい特性を、衝動や感動、興奮の必然を導入しました。 》 79頁

《 「強さ=激しさ」は還元不可能な何かの、世界の合理化や延長化の企てから逃れるすべてのものの、近代的な名前になりました。 》 79頁

《 しかし、それが「強さ=激しさ」として認められるや否や、もはやそれとして存在することはなくなり始めました。 》 80頁

《 あらゆる強さ=激しさをすでに脅かしているのはその思考でさえなく、その知覚であるように思われます。ある強さ=激しさが知覚されるや否や、その何かが失われます。というのも、特定され、特定し直されるからです。 》 80頁

《 知覚された強さ=激しさがそれ自身では持続することができない以上、それを延長するためには、それを具体的に知覚する誰かの介入が必要なのです。その強さ=激しさを支えるための生きる存在なくして強い=激しい世界はないのです。 》 80-81頁

《 世界の主体が存在したときから、この主体は彼自身、強さ=激しさという理想によって動かされる必要があったのです。世界を構築する強さ=激しさを維持するには。
  近代的な精神にとって、強さ=激しさという概念は誘惑的な何かを持っており、再び主体を必要なものにしたのです。 》 81頁

 「4 道徳的な理想──強い=激しい人間」を読んだ。

《 強さ=激しさの道徳なくして強さ=激しさの形而上学はありえません。 》 83頁

《 それゆえ、近代の生において電気が有する重要性に釣り合うように、新しいタイプの道徳が現れました。電気人間です。 》 84頁

《 近代的な精神が新規さの必要を保持していたのはとりわけ次のような理由のためです。身体と精神の火を燃え上がらせなければならない。古い強さ=激しさが特定されるにつれて、こうした火が絶えず、新しい強さ=激しさを要求するのです。未知のものの火はすでに見たものの灰に移行します。というのも、世界が強さ=激しさによって満たされるのはひとが絶えずそれを満たし続けるときだけなのですから。 》 85頁

《 詩において発明された反抗する青春期の若者、すなわちもう子供ではありませんがまだ大人ではない人間は、もちろん、ロマン主義的人間の萌芽です。しかし、これが二十世紀の大衆文化においてはとりわけロックンロールにおいて開花したのです。
  青春期の若者、これはまずホルモン的で、欲望と激怒と欲求不満に突き動かされた存在です。それではロックとは何でしょうか? 電気を帯びたホルモンです。 》 94頁

《 第二次世界大戦後に表現された強く=激しく電気的な若さのこうした理想は、ひょっとしたら、煌めく人間に関する最後の大きな近代的モデルであったかもしれません。 》 95頁

《 こうした観点から見ると、十八世紀の放蕩者、十九世紀のロマン主義者、二十世紀の青春の若者とロック歌手は歴史の同じ隠された三つの形象なのです。これは電気の経験として考えられた生の、ヨーロッパ的で、それから広く西洋的になり、次第に大衆化されることになるある理想の隠された歴史なのです。そして、これは理性の一種の落ち込みのなかに常に崩れ落ちようとしているある近代の世界の強さ=激しさを支えるためのものでした。 》 96頁

《 最大級の人々によって共有された理想としての強さ=激しさは、もはや例外的な人間の幾人かの道徳的な理想というよりは、むしろその生を統制する共同の仕方を表象するようになったのです。このとき、強さ=激しさはもはや完全には特異な道徳に属することはできなくなり、もっとずっと一般的な倫理のトーンを与えることになったのです。 》 96頁

《 倫理は仕方の問題であり、何かをなす方法であり、それゆえ副詞的なのです。倫理は内容には関わらないのです。その一方で道徳は、その行動をこうした価値や観念に基づかせる方法を決めてかかることなしに、価値や観念を固定するのです。 》 97頁

 ロックンロールが出てくるとは。熱い、暑い、夏だ。台風が近い。