『縄文論』再読・八(閑人亭日録)

 安藤礼二『縄文論』作品社二〇二二年一一月一〇日第一刷発行、「まれびと論」の「折口信夫の「まれびと」」を再読した。

《 シャマニズム的な憑依、「神憑り」の上に仏教的な世界観が重なり合い、それらが一つに融け合うこと、つまりは一つに「習合」することによって、列島の宗教と文化の基盤が形づくられた。 》 260頁

《 列島の原初の神とは「霊魂」(たま)そのものであった。「霊魂」がさまざまな「もの」に宿り、生命を賦与する。森羅万象あらゆるものは「霊魂」から生まれ、それゆえ「霊魂」を宿すことによって生命が賦与される。「霊魂」は動物・植物・鉱物、森羅万象あらゆるものに共有されている。それが折口古代学の結論である。 》 262頁

《 祝祭のなかで人間は、人間を超えた存在、森羅万象あらゆるものに生命を賦与する神となる。 》 263頁

《 すべてを破壊する荒ぶる鬼とは「荒神」であり、その裏には柔和な翁が、すべてを生み出す「如来」が秘められている。 》 264頁

《 祝祭のなかで人間は「神」となる。だからこそ、原初の祝祭とは客体的に外から観るものではなく、内なる住人全員が主体的に参加しなければならないものだった。「まれびと」は祝祭をもたらし、祝祭の中心に位置する。 》 267頁

《 極東の荒ぶる自然のような善悪の両面を具えた、強烈な「力」を発現する神。その力によって破壊を構築へ、構築を破壊へと転換してしまう神。そうした神の発する力を具体的に造型したものが神聖な獣にして神である「まれびと」であった。
 極東の列島は北と南にひらかれている。それを制限しているのは、ただ近代的な国境のみである。 》 269頁

《 来訪神の信仰、「まれびと」の信仰を掘り進めていくことで「日本」をはるかに超え出て世界の普遍性にまで、宗教と芸術表現が渾然一体となった人間の生活の原型にまで到達することができる。折口古代学は内なる自己の過去を探る民俗学フォークロア)と外なる他者の現在を探る民族学エスノロジー)の創造的な総合として可能となった。 》 269頁

《 神にして人にして獣でもある「まれびと」は、外と内の中間を生き、それゆえ、外の力によって内を活性化し、内の閉鎖を外の開放へと転換できる力をもっていた。それは、現代においては、芸術家が果たさなければならない役割である。「まれびと」は、未来の、来るべき芸術家のモデルとなるものでもあった。 》 270頁

 「まれびと論」の「岡本太郎の「太陽の塔」」を再読した。

《 太郎もまた、列島日本の時間的な極限にして限界(「縄文」)に、向かい、空間的な極限にして限界(「南島」)に向かった。その二つの極限=限界(リミット)から、自らの信じる「超現実」に向けて飛躍したのである。しかし太郎のいう「超現実」は、そのなかに自らとは相反するもう一つの極を含み込んだものだった。太郎は自身のもつそうしたのスタイルを「対極主義」と名づけた。 》 305頁

《 狩猟社会は、物質的に豊かであると同時に、精神的にも豊かであった。そこでは、狩猟と採集、動物と植物が一つにむすびついていたように、日常の道具を作る職人と非日常の作品を作る芸術家もまた一つにむすびついていた。人々は、日常の道具を自ら作り、聖なる神に捧げる作品を自ら作っていた。そのような職人にして芸術家によって、アイヌの人々の装飾文化、縄文の人々の装飾文化が生む落とされた。ルロワ=グーランは、縄文の土器、縄文の土偶に大きな感銘を受ける。そこに造形されている文様は、なにかの意味を伝える個別の言語であるとともに、あらゆる意味を一つに集約して表現し尽くす全体的かつ総合的な絵画でもあったのだ。 》 308頁

《 太郎にとって、縄文の土器こそ、「古代」と「未開」を通底させるものだった。だとするならば、「太陽の塔」とは、岡本太郎によって造形された新たな時代の縄文土器、表現の未来を切り拓いていくための縄文土器でもあったはずだ。 》 310頁

《 「縄文」は、この列島日本では一万年以上持続し、(引用者・略)その反対に、「弥生」から現在までは、多く見積もっても三千年しか経過していない。「縄文」と「弥生」以降では、時間のスケールの桁が違うのだ。そして、弥生から現代に至る三千年の間に、列島日本では、原初的な大規模農耕共同体──「国家」のはじまり──から超近代的な都市の建設に至るまで、社会はめまぐるしく変化した。おそらく「縄文」の人々は、意識的に、社会の変化そのものの一つの大きな原因となる農耕を採用しなかったのだ。 》 310-311頁

《 狩猟採集社会は、物質的にも、精神的にも豊かである。定住は権力を生み、遊動は富と権力を解体してしまう。 》 311頁

《 超現実への通路がひらかれた縄文土器という「もの」の在り方が、南島の聖地である御嶽では、場所そのもののもつ力にまで拡大されている。「もの」から「場所」へ。超現実への通路がひらかれた「もの」たちを包み込むように存在する「空」の広がり全体に形態を与え、作品として造形していくこと。そこに、太郎の芸術家としての新たな目標が定められる。 》 315-316頁

《 岡本太郎は、列島日本の時間的な極(「縄文」)と空間的な極(「南島」)だけを探求したわけではない。その二つの極を、現在と切り離して、「起源」として実体化したわけでもない。列島日本ではさまざまなものが入り混じり、そこから原型的なものが立ち上がってくる。太郎はそのダイナミズムを決して見失わなかった。現在であれば、「クレオール」──諸言語の混淆から原型的な言語が生成される──という概念に近い理解である。アジア諸地域、もしくはユーラシア大陸諸地域に由来する諸文化の混淆から、極東の列島に原型的な文化が生成されたのだ。 》 318頁

 安藤礼二『縄文論』作品社、再読終了。岡本太郎の絵画にはすごいとも思わなかった。「太陽の塔」は、実際に見ていないので何ともいえないが、研究者、文筆家としては一流だ思う。