安藤礼二『縄文論』作品社二〇二二年一一月一〇日第一刷発行、「南島論」を再読した。短いが、これまたじつに刺激的だ。
《 つまり、列島における国家の起源には〈母系〉制の社会が位置づけられ、その最も古くまた最も典型的な構造は、「〈姉妹〉が神権を掌握したときは〈兄弟〉が政権を掌握する」というものであった。 》 224頁
《 吉本隆明は、列島に生まれた国家が変容を重ねながら、この現代に至っても、古来以来の、いまだ呪術的宗教的な共同の幻想であることを明らかにした。それでは、なぜ『共同幻想論』に引き続いて、来たるべき「南島論」が書き上げられなければならなかったのか。列島の中心部で形となった天皇制国家は、歴史以前から長く続く〈母系〉制社会に「接ぎ木」され、その構造を収奪した新しい体制に過ぎなかったからだ。南島には、その「接ぎ木」された天皇制国家を容易に相対化してしまえるほど古層の、アジア的な原初の共同性を保った体制が維持されていたのだ。 》 224頁
《 なお、吉本がいう「イメージ」の世界を最もクリアかつ最も美しく描き出した著作は『言葉からの触手』(一九八九年)であろう。そこには胎児として孕まれる「概念(コンセプト)」等々といった驚嘆すべき見解がさりげなく記されている。 》 230頁
本棚から吉本隆明『言葉からの触手』河出書房1989年6月10日初版発行を取り出す。
《 概念はそこに封じこまれた生命の理念としては最高度な段階にあるはずなのに、どうして生きいきしていない抽象や、鮮やかでない形象の干物みたいにしか感じられないのか。これにたいする解答のひとつは、はじめにあげたように、書くという行為とその結果のもたらしたデカダンスが、感受性の全体を摩耗させてしまったということだ。あえてしかつめらしい言い方をすれば、自然としての生命と、理念としての生命の差異をひろげてしまったのだ。その意味では最初の原因は、文字の誕生のときすでにあった。文字が誕生してからあと、わたしたち人間は理念の生命を原料に、〔概念〕をまるで産業のように、大規模に製造できるようになったのだ。文字による語の大量生産体制の出現は、ひろがってゆく一方の過剰生産の系列をうみだした。それは必然的に〔概念〕のなかに封じこまれた生命の貧困化を代償にするほか、源泉はどこにもなかった。現在ではほとんどすべての文字、それを組みあげた語は、自然としての生命などを土壌に使わずに、人工的に培養しているといったほうがいい。 》 「(2 筆記 凝視 病態 」より 15-16頁
「本を読む #091〈梶井純『戦後の貸本文化』〉」が目に留まった。
https://ronso.co.jp/%e6%9©%ac%e3%82%92%e8%aa%ad%e3%82%80%e3%80%80%ef%bc%83091%e3%80%88%e6%a2%b6%e4%ba%95%e7%b4%94%e3%80%8e%e6%88%a6%e5%be%8c%e3%81%ae%e8%b2%b8%e6%9c%ac%e6%96%87%e5%8c%96%e3%80%8f%e3%80%89/
本棚から梶井純『戦後の貸本文化』桜井文庫、発行日昭和五十一年五月三十日、発行所東考社を抜き出す。文庫版、サイン入り。