『賽の一振り』再読(閑人亭日録)

 ステファヌ・マラルメ(柏倉康夫・訳)『賽の一振り』月曜社2022年3月18日第1刷発行を再読。「訳者解説」から。

《 白地の上に黒で書かれた文字により、作品に可視的な律動をあたえることで、時間から脱せしめ、永遠へと昇華させること、音楽の持つ時間性を、活字の大小と余白の活用で、波動として氷づけにすること。マラルメが「賽の一振り」の紙面で実行したのは、まさしくこうした作業であった。 》 「III -2 文字によるバレエ」 57頁

《 漆黒の天空に輝く星座は、マラルメがいままさに書こうとする作品のいわば陰画(ネガ)であり、その見取り図と思えたのではあるまいか。 》 「IV-4 満天の星」 63頁

《 主(船長)が賽を握った腕を頭上高く掲げたまま、おそらくはそれを投じることなく、逆巻く海に没したのは、後に続く者への信頼の証しである。 》 同上 65頁

《 「あらゆ思考は賽の一振りを放つ」限り、「偶然を廃する」という挑戦は継続される。 》 同上 65頁

 安藤礼二『縄文論』作品社、「場所論」では、ステファヌ・マラルメの詩『賽の一振り』が論じられている(114頁~138頁)。当該頁を再び読む。

《 「無」を見るためには「鏡」が必要である。しかし、「無」そのものとなり、「無」そのものを生きるためには「鏡」を粉々に破壊してしまう必要がある。若きマラルメが、カザリス宛の書簡のなかに残してくれた「無の詩法」を貫徹するならば、そうなる。
  「無」を破壊し、「鏡」の外へと出ること。「無」を静的な「場所」ではなく、動的な「媒介」として考えること。マラルメが、未完のまま放置した「イジチュール」から「賽の一振り」が産み出されるためには、どうしても、そうした過程を経る必要があったはずだ。田辺元は、最後の著作となった『マラルメ覚書』のなかで、そう記している。 》 132頁

《 マラルメが、あるいはイジチュールは、過去の必然を未来の偶然にひらこうとした。それは西洋とともに東洋を、東洋とともに西洋を乗り越えていくことでもある。
  表現の未来は、思想の未来は、そういった西洋と東洋の分割を、過去においても未来においても、偶然性を梃子として乗り越えていってしまった新たな次元でしか可能にならない。 》 137頁

 『賽の一振り』と「場所論」から北一明の花生け『幻想玉耀変油滴虹彩花生』1977年作を想起した。この花生けは、北の茶碗などの道具類のなかで最大級の大きさと重さがある。切っ先鮮やかな切り込みにより、ダイナミックな力動感が漲り、岩礁の波濤、といった印象を受ける。私は彼の代表作の一つとみなしているが、彼の著作などには掲載されていない。不思議だ。もはや聞くこともできない。