『人類学とは何か』二(閑人亭日録)

 ティム・インゴルド『人類学とは何か』亜紀書房2020年3月26日 初版第1刷発行、「第4章 社会的なるものを再考する」を読んだ。

《 一九八八年のある日、ついに私は、社会関係をもつことと有機体であることは、人間存在の二つの面なのではなく、同じ一つのものだということ、すなわち当該=環境=内=有機体は、世界=内=存在であるということに気がついた。 》 110頁

《 人間存在が、社会生活の実践的な仕事の中で、互いの精神と身体をつくっているという考えは、今では言わずもがなのことである。 》 116頁

《 そうなると、社会的と生物的という存在の二つの側面の相補性ではなく、関係論的な存在の理解のしかたと、集団的な存在の理解のしかたという二つの存在論の分裂にぶちあたってしまう。この二つの存在論が完全に相容れないものになってしまっている主な原因は、社会人類学と生物人類学の折り合いが現在行き詰っていることにある。行き詰まりを打破するには、まるで別の生物学が必要なのだ。すなわち、社会人類学がいま人をそう見ているように、いのちある有機体を、もともと他者との諸関係において構成されているものとみなす生物学である。この種の生物学は、親族の線に沿って起きる変化としてではなく、人間も人間以外の存在もともに含む、形式がその中で生まれ持続する全関係の母体の展開として、進化を考える必要がある。また、こうした形式は、遺伝的あるいは文化的にあらかじめ指定されたものではなく、発達あるいは個体発生のプロセスの絶えざる創発的な結果として理解する必要があるだろう。このように再考することが、過去数世紀にわたってダーウィンパラダイムによってつくられたものほどではないにせよ、それに比肩するような大きさで、私たちの世紀の人間科学に革命をもたらすかもしれない。(引用者・略)分子生物学や後世的遺伝学、免疫学、神経生理学のような多様な分野で、生物科学は、ダーウィンの理論がもはやあてはまらないポストゲノム的な世界に向けたパラダイムシフトに必死に取り組んでいる。 》 119-120頁

 「第5章 未来へ向けた人類学」を読んだ。

《 人類学を結びつける接着剤とは、経験の統合であると私たちは主張した。 》 136頁

《 同じように私たちは、人間の生が身体、精神、社会のレイヤーにばらばらに切り分けられたり、その研究が生物学者、心理学者および社会学者の間で分割されうることを認めない。 》 136頁

《 未決定の部分がなければ、生は続かない。それは常に逃れていかなければならないものでもある。 》 136頁

《 人類学の来たるべき偉大な挑戦の一つは、進化科学の主張をつくり替えてしまうことであろうと、私は考えている。遠洋の大型タンカーのように、それはゆっくりと向きを変える。それが起きると、人類学は、人間の経験の豊かさと分割不可能性の中にその統合性をついに再発見するだろう。 》 145頁

《 アートと同じで、人類学は、あるがままのものを描いて分析することだけに結びついている必要などない。それはまた実験的でもあり、思弁を許されている。 》 146頁

《 しかし、人類学的な会話がそのように、問いとしてのアートであると考えられるのであれば、科学に対立する必要はない。 》 147頁

《 人類学の真の貢献は、文献にあるのではなく、生を変容させる力にある。 》 147頁

 じわ~っというか、ドンドコドンドコというか、ビシバシ心に響く。読書の喜び、だ。私の思索と予感を同行、いや先導してくれる。

 午前、源兵衛川中流部、水の苑緑地の草刈りに。青山学院大学の学生35人とともに楽しく作業。うーん、女子大生はカワイイ(?)だけの若い歌手より遥かに魅力。「わ、若い!」と驚かれ、じいさん、ついつい張り切ってしまう。お昼帰宅。真夏日でないせいか、汗も冷や汗も出ず。