『月に吠える』冒頭の詩「地面の底の病気の顔」。
《 地面の底の病気の顔
地面の底に顔があらはれ、
さみしい病人の顔があらはれ。
地面の底のくらやみに、
うらうら草の茎が萌えそめ、
鼠の巣が萌えそめ、
巣にこんがらかつてゐる、
かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、
冬至のころの、
さびしい病気の地面から、
ほそい青竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶれるごとくに視え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。
地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顔があらはれ。 》
鮮烈に記憶されている詩。特に冒頭と結びの二行。今再読しても、ただその情感というか情念というか、とらえどころのない深い暗さに引き摺り込まれた。ネットではさまざまな解釈が開陳されているが、そんな解釈前の強力な吸引力。
《 蛙の死
蛙が殺された、
子供がまるくなつて手をあげた、
みんないつしょに、
かわゆらしい、
血だらけの手をあげた、
月が出た、
丘の上に人が立つてゐる。
帽子の下に顔がある。 幼年思慕篇 》
「蛙の死」は、今回読んではっとした詩。昨日壁に掛けて鑑賞した絵、村松茂さん晩年の作を連想。”月が出た/丘の上に人が立つてゐる。/帽子の下に顔がある。”。村松茂さんの絵は言葉でなんと表現していいのか、まだわからない。50号を超える白い布地に牧場の木の柵が筆でさっさっさっと描かれたような、と書けばいいのだろうか、じつに明快(?)な構成の絵だが、一本の柵の先端に帽子(?)がちょこっと描かれていて、それがじつに決まっている。絵が一気に人間味を帯びてくる。一目で気に入って購入。この絵は11月29日から12月3日までの「三島ゆかりの作家展」三嶋大社宝物殿ギャラリーで展示。
『月に吠える』を読んだら以下のことを書きたくなった。
私は、ガラケー(携帯電話)しか持ったことがない。機能は通話とショートメールだけ。子どもの頃から、紳士が内ポケットから取り出す懐中時計に惹かれた。成長して買った腕時計は必要なとき以外は外していた。好みは変わらないな、と今さらながら思う。バッグからガラケーを取り出して時間を確かめる。スマホは大きすぎる、重すぎる、機能が多すぎる。
自動車、バイクの運転は興味がない。自転車で自力でガタガタ走るのが好き。他人様(ひとさま)とはずいぶん違っているな、と思う。
なんといっても競争がキライ。他人(ひと)と競うのがイヤ。他人(ひと)がやっていないことなら競い合うこともない。店も、K美術館も、源兵衛川のゴミ拾いも同じ。