萩原朔太郎第二詩集『青猫』大正十二年一月刊を『日本の詩歌 14 萩原朔太郎』中央公論社昭和43年1月13日初版発行で久しぶりに読んだ。今世紀初の再読だろう。いろいろな発見、気づきがあった。まずは「憂鬱」という言葉が頻出。
《 あまりに恐ろしく憂鬱なる 》 「恐ろしく憂鬱なる」結び
《 猫のやうに憂鬱な景色である 》 「憂鬱な風景」冒頭
《 憂鬱なる桜が遠くからにほひはじめた 》 「憂鬱なる花見」冒頭
などだが、それの変奏のように「憂愁」もよく使われている。
《 なにかの草の草の汁をすふために 憂愁の苦い汁をすふために 》 「憂鬱の川辺」
《 私の臥床にしのびこむひとつの憂愁 》 「鶏」
憂鬱と憂愁。どう違うのか深く考究しないが、憂愁からは西脇順三郎のいう「愛愁」を連想。そんな中で以前は気づかなかったが、「閑雅な食慾」に瞠目。
《 「閑雅な食慾」
松林の中を歩いて
あかるい気分の珈琲店(かふぇ)をみた。
遠く市街を離れたところで
だれも訪づれてくるひとさへなく
林間の かくされた 追憶の 夢の中の珈琲店である。
をとめは恋々の羞をふくんで
あけぼののやうに爽快な 別製の皿を運んでくる仕組
わたくしはゆつたりとふほふくをを取つて
おむれつ ふらいの類を喰べた。
空には白い雲が浮んで
たいそう閑雅な食慾である。 》
注:ふほふく=フォーク
他にもあらためてその魅力に気づいた詩がいくつかあるが、巻末に付け加えたようにある異色の詩、「軍隊」に驚愕。巻末の詩なので、青空文庫では下のほうにある。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/1768_18738.html
伊藤信吉の解説から。
《 この詩は副題に書かれているように「通行する軍隊の印象」を描いたものである。その点で現実的である。 》 168頁
《 しかし厭戦的なものは、この詩の制作動機からいえば結果にすぎない。作者がそこに見たものは自分の美意識と反対のもの──厭悪感をそそる重油のようなものだった。自分の美意識と逆のものを描くことによって、その否定的感情から、結果的に厭戦気分が生じたのである。 》 169頁
朝、同居している彼女が「そこに男の子が寝ている」と呼びかけてきた。なんと我が家の前のお寺の参道横で大の字になってぐっすり寝ている。散らばっている財布、スマホ、小銭をまとめ、目が覚めるのを待つ。しばらくして「オシッコをしたい」というので、彼女と両側からかかえて向かいの三石神社の公衆トイレへ。(足がふらつくので、我が家の三階の(私用の)トイレへは上がれない)。無事済ませると、トイレ向かいの源兵衛川の上の桟敷へ寝かせる。川風が心地よい。見守る。午前11時、目覚める。近くの飲み屋でテキーラを派手に飲んだようだ。青年は飲み仲間に電話。やれやれ。