午後、源兵衛川中流、水の苑緑地・かわせみ橋上流の土手の雑木を、一昨日に次いで根元から伐採。土のう袋に詰め込んで自転車に載せ、帰宅。汗。ふう。コーヒーが旨い。
北一明の茶碗を卓上に置く。陶芸教室で某陶芸家は、彼の茶碗を一目見て「素人の作品ですね」と言い放った。言葉に詰まったが、別に反論もしなかった。こんなものは簡単にできる、と彼は言葉を重ねた。彼の焼き物は去年、某まちなかア-トフェスタで見ているが、ごく普通の陶芸作品(花生けなど)だった。それにゼロが四つ並んでいて仰天。じっと見たが、やはり万単位・・・。いやはや。つくづく思うのは、作品の価値と商品価値の乖離。この数年、これは購入したい、と物欲をかきたてる未知の作家の作品に出合わない。その理由が縄文の深鉢土器にあるのは、ここでよく書いている。美術の歴史がどうのこうのと言って、その歴史の文脈の中での遺産だから、という視点は、いずれ更新されるもの、と私は考えている。その時代、その時代で美意識や歴史観は大いに違う。現在すごいすごいともてはやされている美術作品が、果たして来世紀には同じように評価されているだろうか。評価されているかもしれない。話題にもならないかもしれない。KAOSの四人(北一明、味戸ケイコ、奥野淑子、白砂勝敏)は、さて、来世紀、評価されているだろうか。
過去を振り返ると、百年以上前、二十世紀初頭、田島志一の審美書院が出版した豪華美術本は最近、密かに注目されているようだ。「日本の古本屋」「ヤフー・オークション」などを巡覧しているが、最近新しい出物がない。「日本の古本屋」には以前は欲しい本があって、高いなあ、と見送っていた出品物がみな、消えている。「ヤフー・オークション」では、落札価格がこんなに高いの!と驚く。私には手の出ないお値段。いつか「審美書院と国華社」展をやりたいな、と思っているが、出物がなくては、なあ