東京新聞コラム、岩木山『大波小波』の「原初の驚き」は、棟方志功を賛辞する内容。一部引用。
《 何かを感じて思わず声にならぬ声を発するのが芸術だ。棟方志功の絵画や板画がそうである。 》 冒頭
《 「釈迦十大弟子」が典型である。 》
《 棟方の根源には縄文の土偶のイメージがあって、 》
《 いま文学は題材の奇抜さや方法の斬新さが目立つばかりで、物事に対する原初の驚きや過剰な自意識、羞恥心、故郷の色彩感に欠ける。棟方の根源に触れ、いま一度文学とは何かを考える時である。 》 結び
書き出しの芸術論には首肯する。しかし、棟方志功の絵画や板画、「釈迦十大弟子」には、実物を前にしても惹かれない。コラムの半ば、「縄文の土偶のイメージがあって、」は、私にはわからない。私は、土偶には魅力を感じない。結びの引用、前半の一文には美術にも言えるが、結びの一文には私とは違うなあ、と思う。文学も美術も、その可能性に挑むべき、と私は思う。
岡本太郎は縄文土器の火焔土器に感嘆。私も。縄文時代は、今から13000年くらい前から2300年くらい前まで、約1万年間続いた時代という。地域も広い。土器も多様。以下略。
来年一月に東京国立博物館で開催される本阿弥光悦展のキャッチコピーに注目。
《 徳川家康が瞠目した、美の異風者(ゲーム・チェンジャー)。本阿弥光悦… 》
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