事事無礙法界と縄文(閑人亭日録)

 縄文土器の強烈な訴求力から「事事無礙法界」へ連想が飛んだ。一昨日の引用。

《 自他を超えるものの中に包まれていて初めて自他であるという。そのことが認識されたとき、自己は自己のみで成立していたという考えは否定され、すなわち自己が否定されることになる。 》

 縄文時代においては、自己と他者はどのように認識されていたか、私には不明だが、何といっても水と食料の確保が切実なことだったろう。そして自然の脅威からの防護。危険な自然環境の中で、縄文土器の独特な文様と壮絶な造形はいかなる意味をもっていたのか。三十年前に北一明の書について書いた拙論『創造の「書」 「書」の創造』を思い出した。その一節。

《 「書」の根源を見極めることは、必然的に遙かなる古代文字の成立の現場へ行き着く。そこは 象形文字という、漢字の歴史の誕生の場である。そこは、自然界の有象無象の脅威を前に、それに 敢然と立ち向かう人間の認識の武器として、無から有(文字)を創出させようと試る人間の、熱い 意思の壮大なる現場でもある。その現場を自らの手で再検証再確認した者によってのみ、「書」の 新たなる歴史の創造が成されるのではなかろうか。あるいは歴史創造の大いなる要因であろう。 》
 http://web.thn.jp/kbi/kitashoron.htm