「美しい」と「美」の間(閑人亭日録)

 「美しい」と「美」の違いについて私的見解。
 美しい=表現形態の極みに心が痺れる
 美  =表現形態の極限を拡張する潜勢力に心が震える
 昨日挙げた「KAOSU7」の作家たちは皆、「美しい」作品を制作し、さらに「美」へ踏み込んだ作品をも制作するだろうと私は見ている。その作品に深く感応する人だけが予感する。未知の領域を予感させる兆しのような感触を直截的には語れない。凄いと直観、震撼しても、それを言葉でうまく表せないもどかしさがある。そりゃそうだ。容易く言葉で表すと、的外れになるおそれがある。後年、その評価が的外れか正鵠を射ていたかが明らかになる。「美しい」の評価、「美」の評価は、時代の変遷とともに変化する。美術芸術作品とはそういうものだろう。
 「美」へ踏み込んだと思える同時代の作品に出合うとワクワクするが、作家の没後、時代に埋もれた優れた作品を発見することもワクワクする。その実例が木版画絵師・小原古邨。そして一昨年の秋に出合った久田誠道の創作木版画
 生前から応援していたつりたくにこさんのマンガについて日本の評論家は殆ど話題にしないが、この五年、各国で出版された厚い作品集では熱く語られているようだ。解説文が長い!
 味戸ケイコさんの絵については椹木野衣(さわらぎ・のい)が絵の解説を書いている。

《 しかし、一九八〇年代も半ばとなり、バブル前夜の楽天的な気運がそんな陰りを一掃してしまうと、気づかぬうちに、いつのまにか見なくなっていた。けれども味戸の絵は深く人々の心に沁み、決して消えることはなかった。それどころか、こうしてあらためて見たとき、味戸の絵は、いまもう一度その役割を取り戻しつつあるように思われる。(引用者・略)もとが版下として描かれたゆえ、用を終えると所在が不明になりがちなこのころの味戸の原画は、幸い静岡県在住の所蔵家の目に留まり、その多くが大切に保存され、未来に発見されるまでの、決して短くはない時の眠りについている。 》 『日本美術全集 第19巻 戦後~一九九五』小学館 二〇一五年八月三十日年初版第一刷発行、「150 雑誌『終末から』表紙絵  味戸ケイコ」273頁

 味戸さんは今年も企画展が控えている現役作家。それにしてもなあ、「未来に発見されるまでの、決して短くはない時の眠りについている」とは。あと何年生きればいいんだ。