優れた絵とは(閑人亭日録)

 昨日一室に並べた絵をきょうもじっくり鑑賞。味戸ケイコ、上條陽子、木葉井悦子の絵は、画廊で展示していたもの。購入してから三十年余が過ぎている。が、未だに飽きない。というのはおかしいが、今もって胸の奥に染み入る新鮮な魅力がある。
 味戸ケイコ『寒い日』
 http://web.thn.jp/kbi/ajie.htm
 木葉井悦子『どんづき』
 http://web.thn.jp/kbi/kibai.htm
 内野まゆみさんが並んだ作品を一通り見て発した言葉「木葉井悦子さんの絵、いいね」。これは嬉しい。味戸ケイコんさんの『寒い日』は、内野さんは以前からいい絵と評価していた。新しい額で一層引き立つ。
 図録で知って三十余年。数年前にやっと入手した深沢幸雄の銅版画『愛憎』は1960年の作。これまた何かが心の奥に響いてくる。
 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/211522
 一昨日引用したエリザベス・グロス『カオス・領土・芸術 ドゥルーズと大地のフレーミング』の文章に得心がいく。
 そして奥野淑子の木口木版画だ。二年前の拙ブログ。
 https://k-bijutukan.hatenablog.com/entry/2021/11/25/200204
 上記の作品はどれも優れた絵だと、私は思う。そう確信するのは私一人だけかも知れない。故つりたくにこさんのマンガを評価しているのは「私と越沼君だけです」と夫の高橋氏が述べたように。そして今、内野まゆみさんの、手に乗る小さなオブジェ作品(源兵衛川に埋もれていた茶碗の切片を使った作品)を私一人だけ(多分)が高く評価しているように。人はそれを過大評価と思っているようだ。まあ、それでいい。一年前に書いた推薦文。

《  「美は切片に顕れる」  越沼正
  ─── 内野まゆみ作品『古人(いにしえびと)のわすれもの』に寄せて ───

  私はそばを流れる農業用水路源兵衛(げんべえ)川の
 川底の茶碗のカケラを拾っていた。この川は四百年ほど前、
 寺尾源兵衛という人が農業用水として整備したと伝えられる。
 川沿いには人家が並び、文字通り川で炊事洗濯をした光景が、
 幼少のときには当たり前に見られた。
 そんな生活と密着した川なので、燃えないゴミ(ネズミの死骸も)は
 全部川へ捨てた。よって川底は、深さ一メートル以上も、
 茶碗のカケラなどが堆積している。
 三十年ほど茶碗のカケラなどを拾っているが、川底から消えたと
 思っていると、数か月後には「こんにちは」と 湧いてくる。
 四百年の堆積物とご対面──ひとつひとつ指でつまんで拾う。
 そして燃えないゴミの日に、「その他のゴミ」箱に投下。

  骨董のワカルひとは、「コレは明治」と
 言い当てるが、私にはワカラン。ただのカケラである。
 しかし世の中、目利きというか、常人とは全く違った
 審美眼をもつ人がいる。その一人が、デザインの仕事を
 していた内野まゆみさん。
 彼女は茶碗のカケラを見て、いくつかを選んで洗浄。
 それを「カナヅチで叩いて割って(砕いて)」と依頼してきた。
 ふたつ返事で割る…一センチ足らずになったカケラ=切片を
 内野さんはじっと見極め、たてよこ三センチほどの木片に
 色を塗った上に乗せて接着、ま、小さいコラージュみたいなものができる。
 それを拝見して感嘆、天を仰いだ。

 川底に埋もれていたものが、思わず天を仰ぎたくなる、
 それも不用物として川底に捨てられたものが、作品=類例を
 見たことのない美術造形作品として再生、創造される。
 …行程を目の当たりにした幸運と
 作品の粋なすばらしさに目はクギづけに。
 この三十年、再生の途はないと思っていたものが!!
 何というイキなはからいだろうか。
 割れた切片から見えてくる細部の魅力。
 美は切片に顕れると、初めて気づいた。

    2022,11,2 》

 それはさておき。最近の私のイチ推しが、内野さんの掌に乗る小さなオブジェ作品と、やたら重くデカイ、田島志一が関わっていた審美書院の豪華美術本とは、何と対照的か。
 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/artbooks/kusa13.html
 https://k-bijutukan.hatenablog.com/entry/2020/08/04/191148

 午前、源兵衛川中流部、下源兵衛橋上流左岸に堆積した土砂を六人で土手に寄せる。雑草を取り除く。流れがよくなる。昼前に終了。帰宅。ふう。汗。