『記憶と芸術』三(閑人亭日録)

  最初の北川健次のエッセイ「記憶と芸術──二重螺旋の詩学」から。

《 クレーが矢印を使い始めたのは一九二〇年代に入ってからであるが、デュシャンの無機質に比べ、クレーは限りなく有機質の方へと「矢印」の意味が分化した事は興味深い。では美術の枠を出て人類史的に見れば、矢印の出現はいつにその起源を辿るのか。それは<もの>に名前が名辞される以前の遥か昔、シリアの壁画にまで遡る。そもそも矢印とは、感情や意思を伝える原初的な記号であり、自然界のあらゆる事物に霊的な存在を認めるという観念──すなわちアニミズム的な記号として古(いにしえ)より存在していたのであった。 》 15頁

 先年、富士宮市のギャラリーで購入した白砂勝敏さんの手作りの額(縦105mm横72mm)に収まった小さな銅版画(縦70mm横35mm)『向こう側の銀河への地図』を連想。それは上昇していく花火の光跡のような細い矢印(↑)。
 ミケランジェロの未完の遺作『エオンダーニのピエタ』へと論が進む。
 https://harinezumiganemurutoki.com/travel/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%82%BF/

《 ……ふと、私はおもむろに左側面へと廻って見た。すると、そこに現れた先程とは全く異なるフォルムを見て、印象はたちまち覆った。聖母マリアの頭部はキリストのそれと合一し、全体は三日月状の流線型をした優美な前掲への反りを見せ、石という硬い素材でありながら、エーテルのごとき反重力的な浮遊感を呈して、〈霊的な結合───魂の上昇〉というモチーフを見事なまでにそこに表しているのであった。 》 22頁

 これまた上記の額入り銅版画と一緒に購入した、流木に手を加えた造形作品『未来への扉 HASHIGO』(高さ約50cm)に通じる。流木の捻りが実にいい。のびやかな生命感を感じる。