『記憶と芸術』四(閑人亭日録)

 谷川渥「絵画の時間性 序説」から。

《 美や芸術の脱時間性をア・プリオリに主張するならはじめから問題はない。(引用者・略)というのも、芸術においてこそ、時間の現在性というものがもっとも顕著にあらわれるからである。 》 55頁

《 理由律に従い、既知のものを根拠として未知のものに向かう学問の時間的性格が過去的であり、未来の目的の実現を命令する道徳の時間的性格が未来的であるとすれば、芸術の時間的性格はまぎれもなく現在的である。そして宗教の施志向する永遠なるものを形而上学的現在と呼びうるとすれば、芸術の現在は現象学的現在と言わねばならない。それは直観に於て持続する具体的な現在である。 》 56頁

《 瞬間の表象において、知覚的時間と観念的時間とは、想像力を媒介として密接な関係を取り結ぶ。 》 68頁

《 しかし、絵画本来の時間性とは、どんなものだろうか。それは、作品がもはやいかなる出来事をも表象せず、作品自体がいわば一つの出来事である、そのような場合における時間性であろう。作品はただそこに現前するだけで、指向的世界についてとりわけて語りはしない。だからそこには観念的時間が遊離してあるわけではない。知覚的時間と観念的時間との分裂を原理的に拒否するような時間性のあり方が、絵画本来の時間性と言うべきである。絵画が時間体験の場になる、「現在」が湧出するトポスとなる。見ることのうちに時間が生起する、そのようなあり方である。(引用者・略)とはいえ、語ることにおいて、すでにそこに知覚的時間と観念的時間との分裂がきざす。そうしたディレンマから、芸術的時間は自由ではありえない。
  このディレンマは、しかし時間論そのものがかかえているディレンマと別のものではない。「現在」の「謎」を他のどこにおいてよりも如実に感じさせてくれるからこそ、芸術は特権的な存在たりえていると言うべきかもしれない。 》 69頁

   じつに興味深い論考だ。味戸ケイコさんの絵画から受ける遥かな時間性・・・その魅力をどうのように捉えるか。まだ解答への糸口さえ見えてこない。だからおもしろい。