「古人の忘れもの」(閑人亭日録)

 去年の十月三十日から十一月四日まで近所のギャラリー701で企画展「古人の忘れもの 内野まゆみ」展を催した。そのPRで書いた拙文「美は切片に顕れる」──内野まゆみ作品『古人(いにしえびと)の忘れもの』に寄せて──」のコピーを、A4版のチラシに添付した。

《  「美は切片に顕れる」──内野まゆみ作品『古人(いにしえびと)の忘れもの』に寄せて──」
  私はそばを流れる農業用水路源兵衛川の川底の茶碗のカケラを拾っていた。この川は四百年ほど前、寺尾源兵衛という人が農業用水として整備したと伝えられる。 川沿いには人家が並び、文字通り、川で炊事・洗濯をした光景が、幼少のときには当たり前に見られた。
  そんな生活に密着した川なので、燃えないゴミ(ネズミの死骸も)は全部川へ捨てた。よって川底は、深さ一メートル以上も、茶碗のカケラなどが堆積している。
  三十年ほど茶碗のカケラなどを拾っているが、川底から消えたと思っていると、数か月後には「こんにちは」と湧いてくる。四百年の堆積物とのご対面ー、ひとつ ひとつ指でつまんで拾う。そして燃えないゴミの日に、「その他のゴミ」箱に投下。(以上一枚目。二枚目に続く)
  骨董のワカル人は「コレは江戸、コレは明治」と言い当てるが、私にはワカラン。ただのカケラ、である。
  しかし、世の中、目利きというか、常人とは全く違った審美眼をもつ人がいる。その一人が、デザインの仕事をしていた内野まゆみさん。
  彼女は茶碗のカケラを見て、いくつかを選んで洗浄。それを「カナヅチで叩いて割って(砕いて)」と依頼してきた。ふたつ返事で割る…一センチ足らずになったカケラ =切片を、内野さんはじっと見極め、たてよこ三センチほどの木片に色を塗った上に乗せて接着。ま、小さい立体コラージュみたいなモノができる。
  それを拝見して感嘆、天を仰いだ。
  川底に埋もれていたものが、思わず天を仰ぎたくなる、それも不用物として川底に捨てられたものが、作品=類例を見たことのない美術造形作品として再生、創造される。・・・行程を目の当たりにした幸運と作品の粋なすばらしさに目はクギづけに。
  この三十年、再生の途はないと思っていたものが!!
  何というイキなはからいだろう。
  割れた切片から見えてくる細部の魅力。
  美は切片に顕れる、と初めて気づいた。
               2022.11.2 》

 拙文も幸い好評(お世辞でもなさそう)で、ほっとした。三日には多摩美術大学教授、美術評論の椹木野衣氏が来訪。一千百点を超える展示品をじっくり鑑賞され、内野さんにいろいろ質問をされた。そして選んだ四点をお買い上げ。その時のことは今でも話題になる。どんな絵筆を使っているの? 絵具は何を? そして千点超、一つとして同じ絵柄のないことに驚かれていた。傍で聞いていておかしかった。