判る/判り易さ

 昨日は午後五時新宿着。東口の紀伊国屋書店で今月出た椹木野衣(さわらぎ・のい)『反アート入門』幻冬舎を購入。ついでに周囲の美術本や陶芸の本を見てまわる。美術関連の本は大量にあるけれど、陶芸関係の本はかなり少ない。需要が少ないのだろう。何冊かを見たけれども、これは! という陶芸作品に出合えなかった。北一明の突出をあらためて思う。水木しげるの本の特集コーナーがいちばん目立つところにあった。楽しい宴会の後、東京駅から新幹線最終便(三島止まり)に乗車。『反アート入門』に惹き込まれる。わかってもらおうという意気込みと熱意が充満している。これは面白い(といっては不謹慎か)。頷く箇所もうーん、どうかなあ、とその場では判断留保の箇所もあって、とても刺激的。車内で四分の一ほどを読んでしまった。ってことは、学生時代の仲間十一人が集まったこの席では未明のサッカー観戦で寝不足が多く、皆さほど飲めなかったということか。私自身、ビールしか飲まなかったからなあ。ビールでは酔わなかったけど、この本で酔ったわ。じゃなくて覚醒。帰宅してからも少し読む。これからの展開が楽しみ。で、きょうは来客の合間にせっせと読んでいる。うーん、バリバリに刺激的じゃ。

 昨日の静岡新聞朝刊、科学哲学専攻の村上陽一郎のコラム「現論」の論題は『科学と社会』「判らないものへ畏敬を」。その結び。

≪「判る」あるいは「判らせる」ことの大切さとど同時に、人は「判らない」ものへの静かな畏敬を持つことも大切なのでは、と思う。「判る」こと、「判り易さ」だけに価値を置いてしまった時に忘れられるもの、それをもう一度考えてみてはどうだろうか。≫

 ネットの拾いもの。

≪鰹節ってカツオからできてるのか…

 ガチリアルにいま初めて気づいたわ≫

≪さすが「人間グーグル」≫