「現代美術 現代アート」つづき

 昨日触れた椹木野衣「空(そら)から空虚へ」の前頁は北澤憲昭「日本美術のミーム」。

《 美術という観点は「美術」という言葉とともに近代化の過程においてつくり出されたものであった。 》

《 しかし、現代の美術は、美術の限界を越えてひろがり、その定義は限りなくゼロに近づきつつある。 》

《 あるいは、もし、こうした現代の状況を批判しようとするのであれば、美術史は、みずからの拠って立つ 「美術」概念を再定義することを迫られずにはいないだろう。 》

 ミームとは? 手元の辞書には無い。ネット検索から。

《 ミーム( meme )
  gene(遺伝子)と〈ギリシャ〉mimeme(模倣)を組み合わせた造語。
  模倣によって人から人へと伝達し、増殖していく文化情報。文化の遺伝子。
  英国の生物学者R=ドーキンスの用語。 》

 そんな用語は知らんわ。それは捨て置き。椹木野衣『後美術論』美術出版社2015年の最初のほうの記述。

《 今日、現代美術を扱う新しい美術館が次々とつくられ、かつてないアートの情報化が進むいっぽうで、 なぜだか「現代美術」という語の収まり所が悪いのは、虚ろな表音語が社会の全面を覆うような超和製英語の 支配の中で、「現代美術」という語自体が使命を終えさせられつつあることに由来している。日々、洪水のような 情報に晒されるメディアはこのことに気づいていて、エンターテインメントやコミュニケーションのツールとなった アートを現代美術と呼ぶことの無理から、さかんに「現代アート」なる語を定着させようとしている。 》 13頁

 なんじゃい。結論が出ているわ。

《 いま進行しているのは、すべての語の空虚化という意味では、すべてがアート化しつつあるような事態なのだ。 その意味で、アートという語は、こうした状況の到来をかなり早い時期から予示していた。 》 13頁

《 ならばいっそ、この「アートの中空」まで十分に身を入れ、そこから新しい表意概念としての「後美術( ごびじゅつ)論を組み立て直すべきときだろう。 》 13頁

 今頃になって「後美術」の意味がわかってきた。理解が遅いのは生まれつき。

《 仮に「現代美術」が無効となり、アートについていかなる定義もないのであれば、そこではあらゆるジャンルが 結合可能となる。従来は現代美術の範疇とされなかったものも、新しい「アート」の中であれば共存が可能だ。 》  14頁

 この数頁を去年の初読の時には見過ごしていた。推理小説にかぎらず再読は必要だ。理解がやっと追いついた。 しかし「後美術」という用語がしっくりこない。いっそのことJポップにならってJアートとかジャパン・アートと したほうがスッキリ? かなあ。どれもまだピンと来ない。混乱と混沌の時を経て、新しい言葉、新しい基準が 生まれるだろう。大岡信の半世紀ほど前の評論が浮かぶ。

《 おそらく、芸術の概念そのものが、今大きな変質の時期にあるのだ。芸術の概念を否定しつづける芸術 というものが構想されるのも、断末魔と転生とのはざまにある現代芸術の特徴である。
  だが、それにしては不思議だといえることは、『空間から環境へ』展の多くの出品作がそうであったように、 機械の助けを得て作られる作品には、一種独特の楽天性が感じられるということだ。いや、楽天的というよりも、 もっと脱感情的な性格である。 》 『肉眼の思想』中央公論社1969年収録「技術時代の美術」37頁

 1967年に発表された文章だが、それから五十年ほど変動の最中だったといえよう。「芸術の概念を否定しつづける芸術」 という構想は「現代アート」の出現ですでに失効している。今は無窮の荒野か。そう思うのは私が旧世代だからか。 しかし、感覚を研ぎ澄ませれば微かな胎動を感じられぬか。そろそろ揺り戻しというか、収斂の兆しが感じられても いいだろう。

《 ある作品が「手仕事」でつくられていようと「機械」でつくられていようと、「美」の系列にあろうと「能」の 系列にあろうと、そこに「能産的自然」のダイナミズムが生き生きととらえられているかどうかが、ぼくにとっては 大切である。その余の議論は、いずれにせよ二義的なものにすぎない。 》 「技術時代の美術」44頁

 同感。「能」とは機械の機能の「能」のこと。

《 元来、近代以後の芸術が、ブルジョワ的安逸と逸楽の背後に、つねに地獄を見出そうとする熱烈な願望に支えられて きたことは、救いなどどこにもないという認識を背景としていたのである。 》 『肉眼の思想』収録 「文学は救済でありうるか」57-58頁

《 というのも、私見によれば、この百年で目を引き付ける作品には、時と場所とを問わず、必ず、この絶望感にも似た 空虚が物質化しているように感じられるから、なのである。 》 椹木野衣「空(そら)から空虚へ」の結び。

 「絶望感にも似た空虚が物質化」。ウーッム。

《  胃の底にマンホールのごとき異形の穴ありて、ひたすら飢ゑくるしむ。(中略)おに、みづからの胃の穴に首 さしいれて深さはからむとすれば、はるか天に銀河見え、ただ渺渺とさびしき風吹けるばかり。もはや、くらふべきもの なきほど、はてしなき穴なり。  》 寺山修司田園に死す』1965年収録、詩「悲しき自伝」より。

《  ガラスの子宮は何を生む
   透けた体に 透けた内蔵(ハラ)
   透けた頭脳を持った子さ
   そして最後にいつの日か
   割れることばかり恐れる子
   ガラスの子宮は 何を喰う
   宇宙の崖てまで 喰いつぶす
   それでも 腹は満ちたりぬ  》 唐十郎『河原者の唄』1970年収録「ガラスの子宮」全篇

 気づいて買いたくなる本、読みたくなる本が毎日と言っていいほどある。その上気になる新刊がある。 きょうは安田敏朗『漢字廃止の思想史』平凡社
 http://www.heibonsha.co.jp/book/b217173.html

 ネットの見聞。

《 米国では大統領選の候補者がそろってTPP反対であるのは多くの人が知るところだ。しかしそれをもって 「アメリカでは批准できない」とするのはあまりに短絡的だ。大企業は政府や議員に協定内容について圧力をかけ続け、 先週あたりから政府はいよいよその「要望」に応えるべく、動き出している。 》 内田聖子
 https://twitter.com/uchidashoko/status/722947802964226048

《 木目を活かしたざっくりなお椀、フライパン用の木べら、竹べら、ナチュラルな塗装の箸など、 使っていくうちに塗装が薄くなり、あるいは消失して、濡らすたびに湿っぽくなるでしょう?  その部分ばかり黒ずんでしまい見栄えも宜しくない。捨てている方は多いと思うんですが、 メンテの方法があります。> 》 津原泰水
 https://twitter.com/tsuharayasumi/status/719405885143945216
《 亜麻仁(あまに)油を塗る。それだけ。食品売場で売っているあれです。浸透性が高く、 塗装の疵から木部に染み込み、そのまま硬化する性質があります。じつは楽器職人から、 未塗装部分のメンテ法として習った方法です。伝統的に塗装をしない材ってあるんですよ、 紫檀とか。> 》 津原泰水
 https://twitter.com/tsuharayasumi/status/719409714740600833
《 台所周りに応用したら、うまく行きました。そのまま飲める油ですから、人体に害はいっさいありません。 五分もすれば乾いてしまいます。念のため一時間も放っておけば充分です。防水性が甦ります。 塗装がダメになっている物ほど色合いはしっとりと落ち着き、べたべたすることもありません。 》 津原泰水
 https://twitter.com/tsuharayasumi/status/719411902896443392
《 長年の探求の結果、そこまでの性質を持つオイルは亜麻仁油だけだったそうです。楽器にせよ台所用品にせよ、 下手なオイルでメンテをしても表面を汚しているだけですから、見た目は綺麗だけど実は不潔、 という事態になりかねない。念のため割り箸でも実験してみました。防水になりました(笑) 》 津原泰水
 https://twitter.com/tsuharayasumi/status/719414056273051650

 亜麻仁油、近所のスーパーで購入。一昨日、塗装の剥げた箸に塗ってみた。昨日の朝使ってみた。 悪くない。問題無し。で、昨日晴れていたので、窓辺の板敷きの埃を取り、板に垂らし、塗ってみた。 乾燥しきっていて、油が吸い込まれるよう。荒れた肌が潤う、とまではゆかぬが、落ち着いた木目に。
 三十五年前に購入した木のスツールのニス(?)が剥げて汚れが気になっていたので、紙やすりで塗装を剥がし、 油を塗る。深みが出る。一日経って状態を検査。どれも問題無し。窓辺の板敷きがいかに乾燥していたか。 こうなると剥げている桐箪笥、木の窓枠など細かな箇所にも気つく。亜麻仁油、足りないわ。

 ネットの拾いもの。

《 今日も野球がない。何をして過ごせばいいのか。(答:仕事) 》