江戸にフランス革命を!……?

 橋本治『江戸にフランス革命を! 下』中公文庫は読みどころ満載。たとえば「安治と国芳──最初の詩人と最後の職人」から。

《浮世絵は初めからオリジナルに版画なのであって、別に"名画の複製"を前提にしたものではない。肉筆画というのは、そのオリジナルな複数の"限定愛蔵版"というようなものであって、浮世絵の木版印刷は写真製版の複製とは違うのだ。》64頁

 昨日話題になった小原古邨、川瀬巴水らの木版画は、そう、複製版画ではない、オリジナルなのだ。そのことを未だに、多くの人にわかってもらえない。

印象主義の登場は、「描くべきものを描け」というフランス絵画のアカデミズムに対する、「見たままを描きたい」という近代個人主義の戦いである。別にどうってことのない話のようだが、これを日本の話に置き換えてみれば、こういう思想が登場するヨーロッパの奇妙というものも分かるかもしれない。》94頁

《フランスでは、絵画の中に裸の女を見つけた場合「女神だ」と言わなければならないが、日本では、どんな女でも見たいと思えばその女を裸にして描く自由がある──但し、どんな女でもすべて"浮世絵の女"という独特のものになってしまうけれども。》95頁

《フランスあるいはヨーロッパ人にとって"見たままを描く"というのは"個人の印象"をよしとするか否かの"思想の問題"だが、日本の場合は"技法の問題"である。なにしろ、現実の風景に光は射しても "輪郭線"などという不思議なものは存在しないのだから。》96頁

《「北斎を第一級の画家として評価するヨーロッパ人があまり北斎の模写をしないのはなぜだろう?」》140頁

 こういう問いかけをした人は彼以前にいただろうか?

《つまり、北斎は"前近代に於ける近代的な個の予感"であり、広重は"前近代で既に表現されてしまった近代のある情景"ということになる。》142頁

《どうして江戸の町人達には"明治維新の為の思想を用意する"という発想がなかったんだろう? 彼等は、遊んでただけだ。日本人が"近代"である明治維新の為に、一体どういう"思想"を用意したってんだろう? 明治維新が市民革命であるかどうかという発想は、このことを頭に置いたら出て来る訳がない!》「その後の江戸──または、石川淳のいる制度」174頁

 続く、明治維新への洞察、切り込みには目からウロコが落ちた。そうだよなあ。橋本治は『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』新潮文庫の「あとがき」に記している。

《「戦後」は、始まらぬままに終わってしまった。二十世紀後半の日本の思想の沈滞はそこに原因していると、私は思う。》

 橋本治とはなにものか? 坪内祐三は『この文庫が好き!』朝日文芸文庫で書いている。

橋本治の場合は、コラムでも雑文でもエッセイでもなく、橋本治という一つのジャンルなのです。》

 きのう今日と当たり前に寒い。人肌よりも鍋が恋しい。鍋好きな人の独白。

《夕刻、風呂が鍋に見えてきた。鍋が無くてはきっと死んでしまう。おそらく、鍋で入水自殺してしまうだろう。》