蕎麦そば

 昨日は日録を上げてから知人の車に三人同乗、計四人で富士宮市蕎麦屋「どあひ」へ。富士山南麓の国道469号線をひた走る。左手にまことに小さな看板。おお、ここね、とわき道へ。わき道は車一台がやっと通れる農道。一応舗装されているからいいけど、林の中の坂道をよろよろと降りてゆく……まだかなあ〜と迷いが生じる頃にあった〜。山小屋風の小さなお店。ググればいくつもの記事が出てくるので簡略に。この六十年間いろんなところで蕎麦を食べてきたけど、ああこれが蕎麦! とやっとわかった。蕎麦とはこういう味かあ。美味。そばつゆは鰹節が効いていて、私好みの風味。さらっとしている。四人とも堪能。老ご夫婦の細やかな心遣いを感じながら静かな時を過ごす。それにしてもわかりづらい場所だ。大人の隠れ家とはまさしくこの店を言う。

 帰りがけに近所の村山浅間神社を訪れる。す、凄い大杉。巨大杉に四人とも圧倒される。富士山の霊気が直接降りてきているような、厳かな霊域を感じる。大銀杏も凄い。八分咲きの桜が色を添える。いい場所だわ。再訪したい。それにしても、神社の石垣、近所の家の屋根瓦が先の地震で崩れたまま。ブルーシートが痛ましい。

 坂崎乙郎ピカソを考える』講談社1979年から。続き。

《 ですから、若い芸術家が、「自分の理想はアナキズムだ」と言っても不思議ではありません。問題なのはその理想をかれらがいつまで持ち続けられるかということです。組織に同化することが老いることであり、青春が芸術の特質であるとすれば、資本主義社会の中にいてもどれだけ同化しないでいられるかが問題なのです。残念ながら、日本の絵描きはおおかたそういう組織に組みこまれてゆきます。》89頁

《 さて、安井曽太郎の絵を見て失望しました。》94頁

《 何回も見直したのですが、初期のセザンヌばりの婦人像と晩年の孫の像しかいいと思いませんでした。あとはいずれもうまさを狙った作品です。》94頁

《 杉山寧や橋本明治の絵も見ていて気分が悪くなりますが、感覚的にあわないのでしょう。》94頁

《 絵描きも同じです。デフォルメというと私たちは、「あるものを歪曲する」とか、安井の言っていた「強調、変形」とか、また「故意に歪めること」などと思います。しかし本当は、内的必然性によって外界が、すなわち私たちの信じている、また見なれているフォルムが崩れるということです。優れた絵が緊張をはらんでいるというのは、内的世界と外的世界とのあいだの危い綱渡りのようなものなのです。》97頁

《 要するに、安井は梅原とほとんど同じで、やはり一人の不幸な挫折者だったということです。なぜ日本の絵描きがそうなるのかというと、ヨーロッパで七年勉強して来ても、日本に帰って来ると、日本の風土、しきたりに捲きこまれてゆくためです。勲章なぞが目当てになり、立身出世だけになり、選ばれた小数になるのです。》98頁

 明日へ続く。