イタロ・カルヴィーノ『柔かい月』河出文庫2003年初版を読んだ。方法論にこだわり過ぎて袋小路に入ったような短篇集。
《 すぐそこに唐突な死が待っているなんて知っていたはずもないのに、一九八五年夏、カルヴィーノが自分の作品すべてを「軽さ」という言葉でくくってみせたことに今更ながら驚く。 》和田忠彦「文庫版解説」より
この「軽さ」は昨日話題の加藤郁乎氏の作品(俳句、詩、小説)に通じる。
《 単調なひろがりとそのにぎやかな内識(インサイト)。加藤郁乎の世界を一言にして要約すれば、それは気的空間だ。固体の不透明にして牢固たる客観性も、液体の湿っぽい流動性も、ともに加藤郁乎には無縁である。透明にして獏としたひろがり──だが、そこにはあらゆる「気」がところ狭しと犇めき合って千紫万紅の痴態をくり展げていると観念したがよい。 》種村季弘「卵生の狼少年」(『加藤郁乎詩集』思潮社1971年所収)より
《 私が語ろうとした物語は、その実在性がともに疑わしい過去と未来、そうした過去と未来の作用においてのみ個体の存在が決定されうるという限りでは、結局は存在しない二つの個体の出会いなのである。あるいは存在している他のすべての物語からは、また存在しないことによって存在しているもの存在せしめている存在しないものの物語からは切り離すことの出来ない物語なのである。 》「プリシッラ」118頁
カルヴィーノの「個体」と加藤郁乎の「固体」、この違いには月と地球以上の隔たりがある。カルヴィーノの物語について。
《 純粋に形式論理にもとづく演繹的思考のプロセスのみを追うことで物語が構築されるようになる。 》和田忠彦「文庫版解説」より
イタロ・カルヴィーノが加藤郁乎を読んでいたら……。しかし、イタリア語でもなんでも、翻訳不可能だからなあ。あるいは岩成達也の詩集『レオナルドの船に関する断片補足』思潮社1969年を読んでいたら。
大林宣彦の新作映画『この空の花』がネットで話題騒然。
椹木野衣。
《 夜は明けたが、大林宣彦監督『この空の花』の衝撃は醒めない。むしろ深く喰い込んできている。僕は映画評論家ではないけれど、この作品を一人でも多くの人に見てもらうことに、震災と原発事故について考えてきた批評家として、使命のようなものを感じている。 》
《 僕の呟きを読んで少しでも『この空の花』が気になったら、なんとしても劇場に足を運んでほしい。もちろん商業映画である以上、好き嫌いがあって当然だし、すべての人が満足するとも思っていない。けれども「この空の花」は、そうした好悪をこえて、それでもなお、見た人の中になにかしらを残す筈です。 》
中森明夫。
《 昨日、有楽町スバル座で『この空の花』を観た。まさか次の回で椹木野衣さんが観てるとは! 椹木さんと実は一度もまともに話したことないんですよ。けど私の小説『アナーキー・イン・ザ・JP』の一番すごい書評を書いてくれた。それが真夜中のツイート…一つの映画でつながることになるなんて!! 》
椹木野衣。
《 広い劇場にはお客さんが片手で数えられるほど。呆気に取られたが、ゆったりでいいかくらいにしか思わなかった。でも、この映画の全貌が観えたとき、その感情は(中森さんもつぶやいていたが)悔しさに変わっていた。僕は、映画から受けたわけのわからない衝撃と悔し涙とで、しばらく席を立てなかった。 》