楕円幻想

 花田清輝『復興期の精神』講談社文庫に収録されている「楕円幻想」を初めて読んだのは、『全集・現代文学の発見・第八巻 存在の探求 下』学藝書林1967年初版だった。五ページ足らずのエッセイをまるで理解できず、それでもスゲエ、と感嘆した。何よりも楕円という発想に惹かれた。それから楕円好みは私の習い性になった。そして幾星霜、改めてその卓越した発想に舌を巻く。

《 焦点こそ二つあるが、楕円は、円とおなじく、一つの中心と、明確な輪郭をもつ堂々たる図形であり、円は、むしろ、楕円のなかのきわめて特殊のばあい、──すなわち、その短径と長径とがひとしいばあいにすぎず、楕円のほうが、円よりも、はるかに一般的な存在であるともいえる。ギリシア人は単純な調和を愛したから、円をうつくしいと感じたでもあろうが、矛盾しているにも拘らず調和している、楕円の複雑な調和のほうが、我々にとっては、いっそう、うつくしい筈ではなかろうか。 》

 鶴見俊輔は解説で書いている。

《 戦時中に彼が、元マルクス主義者をふくめての、国粋主義者の真円主義者を相手として抵抗することを余儀なくされたように、戦後の彼は、左翼陣営内の真円主義者と論争せざるを得なくなった。 》

 話がそれた。楕円から連想が飛んだのは、3日に引用した、吉田秀和『調和の幻想』の一節、紫禁城に立って得た感想を再び引用する。

《 だが、本当はそうではないのだ。広さだけでなく、ここでは、自分とほかの万物との関係が、中心とそれをめぐって回転するところの従属物という関係におきかえられたというのが、根本だったのである。そうして本来ならお互いの間では、さまざまの関係に立っているそれらの従属物は、「中心の存在」を軸として、それとの関係の遠近によって定められる一つの下に帰順する。いってみれば、水平の関係で並んでいた諸事物が、一つの軸を支えに、垂直の関係に秩序づけられる。それによって、はじめて、一つの調和が成立する。その秩序実現の方法として、あそこでは、シンメトリーがあったのである。 》 「対句とアシンメトリー

 シンメトリー〜真円の中心を重んじる中国の論理。アシンメトリー〜楕円を尊ぶ日本の感性。この違いはじつに大きい。そして北一明の茶碗へ至る。  

白麗肌磁呉須字書碗「人生夢幻」
《 通常よりも高い温度で焼成することにより、全体をわずかにへたらせた作品です。そのため、口縁はやや楕円になっています。
  中国の茶碗等に見られる正円正対称の一分のスキもない完璧な美は、「完結終了で」「余情のない美」であるとして退け、「可能性の美、可能性のエネルギーを内蔵した美」こそ自らの追求すべき美とする北一明の考え方がよく反映された作品です。 》

 銅版画家林由紀子さんのアトリエを久しぶりに訪問。来月、銀座のヴァニラ画廊で催される「森茉莉生誕110年記念 甘い蜜の部屋」展の案内葉書をいただく。林さんの近作が使われている。妖しく深い眼差しに、心を射抜かれる。バタン。

 ネットの見聞。

《 学校教育をはじめとして、今の世界ではあらゆるセクターで「グローバル資本主義の原理」と「国民国家の原理」がせめぎ合っています。それは「寿命の違う生物」のあいだのヘゲモニー闘争だと見なした方がよいでしょう。 》 内田樹

 ネットの拾いもの。

《 ちょっとしたヒマ潰しのはずだったのに、あっという間に九冊の本がバッグの中に収まってしまった…あぁ、これでまた、家の容積が減少してしまう…。 》