逐語訳、意訳、口語体、擬古文

 すっと青冨士。昼前、源兵衛川の月例清掃。清冽な水が気持ちよい。タモを持った親子連れが何組も通る。中高年の人たちが汗をふきふきどさっと通る。

《 水に癒される。夏がいいのは、水に気楽に触れる機会が増えるからだろう。 》 原研哉

《 tomar las de Villadiego 》

 というスペイン語を日本語ではどういうか。三つの辞書に当たった人がいる。

 1 雲隠れする

 2 一目散に逃げる

 3 尻に帆をかけて逃げ出す

 澁澤龍彦が『悪徳の栄え』のなかのジュリエットのせりふを以下のように訳した。

《 外面如菩薩内心如夜叉とは、あたしのことなんだから 》

 これをある学者は批判したという。

《 澁澤訳は、成句をつかいそこねて原意を伝えず、有害な仏臭さだけが目立つので、二重の失敗である。直訳は〈あたしの顔つきや性格と結びついた虚偽性を知っているわね。〉だから、〈あたしの顔つきや性根がひとを騙すのにぴったりなのはご存知でしょ〉とでも改めるべきである。 》

 翻訳では訳文の問題はつねにつきまとう。カフカの翻訳では、池内紀の訳に対して疑問が呈された。

《 かつてカフカの新訳についてふれた際に池内紀の翻訳に疑問を呈したけれども、池内訳で伝わるのは物語の「意味」(のある部分)であるといえば言い過ぎになるだろうか。読みやすくなったとき、そこから何かが抜け落ちてはいまいか。 》

 七日のブログで紹介した、中川五郎の”fragile ”の訳の使い分け、「脆い」「儚い」「よわい」を思う。逐語訳と意訳、口語体と擬古文。どうなんだろう。擬古文ではなんと言っても青柳瑞穂の訳になる、アンリ・ド・レニエ『水都幻談』平凡社ライブラリー1994年初版。銅版画家の林由紀子さんもにっこりと賛意。

《 その名を聞くだに逸楽と憂愁の想ひ胸に湧く。試みに言ひ給へ『ヴェネツィア』と。 》

 こんな話題でお茶を濁した……。