見てるこちらの後ろ

 毎日新聞昨夕刊、「読書日記」は東京大教授刈部直。NHKの映像作家だった佐々木昭一郎の『創るということ 新装増補版』宝島社2006年について書いている。

《 今回、佐々木の映像作品を久しぶりに観て、映っている人物の目が、みな視線が恐ろしいほどにまっすぐで、奥の方から輝いて見えるのに気がついた。本を開くと著者自身が視線の撮りかたについて語っている箇所がある。正面の人物の目から、「見てるこちらの後ろ」にまで視線が届いているようにしないと、作品にならないという。
 いわゆる「カメラ目線」では、まなざしが持続するあいだに生まれてくる変化のようすを、リアルにとらえられないのである。なるほどと腑に落ちた。 》

 その昔、佐々木昭一郎『紅い花』1976年でヒロインを演じた沢井桃子の目力に痺れた〜。それだったのか。それはさておき。「見てるこちらの後ろ」、これはキモだ。味戸ケイコさんの鉛筆画でいいものは、「見てるこちらの後ろ」のその先へ視線が突き抜けているように感じる。優れた作品はどれもそういうものだろう。

 優れた静物画風景画では、画家の視線は描く対象のその先へ視線が突き進んでいる。私たちは描かれた画面を観ると同時に、その先へと視線が引き伸ばされる。その延伸される距離が長ければ長いほど、感動が深まる。そしてその視線の向う先は、画家の内面の深みである。そのブーメランのような帰着が、私たちに不思議な感情の震えを呼び起こす。それが感動とも感激とも言える計測可能の範囲から、戸惑い困惑する、未経験の震える感情までも引き起こす。

 優れた静物画から連想が飛んだのは、昼に豆腐を買ってきたせいか、久保田万太郎の俳句。

   湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

 美術も文学も相通じるものがある。しかし、この俳句に匹敵する湯豆腐の静物画には未だ出合ってはいない。

 かように論じるのは簡単だけれども、現物に即してそれを判断するとなると、躊躇する。審美眼の自信が揺らぐことが多々ある。つまり未経験の震えをどう解釈するか。すごい作品なのか、じつはただ野心的なだけの愚作なのか。いわゆる前衛アートには、後者の愚作が目白押し状態では、と疑念を抱いている。大家巨匠と言われる人の作品にもある。すごい、とお墨付きを与えてしまった手前、しまった、間違いでしたとは、恥ずかしくて今更口にできない、そういうものがかなりあるように見受けられる。まあ、そいう出来損ないの金メッキは、歳月とともにメッキがはがれ、次の世代には燃えるゴミ、燃えないゴミとなる。そんな時代の変わり目を迎えている気がする。

 美術史を見ると、発表時毀誉褒貶の激しいものほど、後世に評価される傾向がある。発表時大好評の作品ほど、長期低落〜忘却の縁のようだ。

 三十年余り前、年長の知人から勧められて新橋アートホールで北一明氏の茶碗を初めて目にした時は、大いに困惑した。こんな茶碗、見たことがない……。当人が豪語するように、本当にすごいのか、あるいは……。それまで焼きものにはさほど関心がなかったが、東京国立博物館を始め、名品といわれる焼きものを手間暇かけて入念に観ていった。北氏の茶碗は桁違いにすごいようだ、規準が違うという結論に至った。「見てるこちらの後ろ」の遙か遠くから来たような印象だ。北氏の場合は、業界からは黙殺同然。後世がどう判断するか。

 それにしても、と思う。美術評論家と美術画商はまったく違うけど似てるなあ、と。作品(商品)を、時に評論家は持論に眩んで見誤り、画商は時流に乗って見誤る。私は当然だが、どちらにも入らない普通の愛好家。

 ネットの見聞。

《 芸術系大学に行って初めて分かったのは「バカに芸術はできない」ということでした。と言って悪ければ、優れた現代芸術は芸術史や文化史はもちろん、人文科学や自然科学の豊かな知識の上に築かれるということです。その意味では他の学問と少しも変わりません。単に絵が好きとかとは全然違う次元の話で。 》

 ネットのうなずき。

《 夏休みなんか、無くていい!古本屋さんに行ければ、それでいい! 》

 暑くて行けん。

 ネットの拾いもの。

《 アベノミクスからアマノミクスへ! 》

 あまちゃん効果。

《  Facebookにウソの日記を書いてたら4時。これがホントのフェイクブック。 》