「 絵画の二〇世紀 」つづき

 前田英樹『絵画の二〇世紀』NHKブックス2004年初版を読了。後半は ピカソジャコメッティそしてルオーが論じられる。前半同様、私にとって 新しい知見がいくつも開陳される。さわりを少し。

《 ピカソの絵は、歴史や社会を動かす無意識の記号作用と深く関係するが、 それを対象としているわけではない。感覚されないものを描くことは できない。描けば、無意識をめぐるいろいろな観念の絵解きとなるだけだろう。  》 150頁

《 自然の世界にはエロティシズムはない。それは、人間の社会でだけ生産 される過剰な現実にほかならない。ピカソは、遺漏なくそれも描く。 》  152頁

《 ジャコメッティが最も意味を認めないのは、自己表現という考え方、 主観や個性の表現という通念である。これほど弱く、ありきたりな幻想は ない。 》 157頁

《 人に物が見えるのは、膨大なものを見ないことによってである。 》  162頁

《 描く、見る、の二つの行為の間には、もともと大きな隔たりがあり、 そこに深淵が横たわっている。どんな絵も、その深淵に架けられた一個 一個の橋であるほかない。 》 168頁

 最後の章はルオーに当てられている。

《 ルオーの信仰は、何よりも絵の外に〈在るもの〉への驚き、畏れ、 希求、信頼といった感情から成り立っている。 》 229-230頁

 上記から、今本棚に掛けてある木葉井悦子さんの小さな絵『どんづき』 へ連想が働いた。吉祥寺の絵本の店トムズボックスの小さな壁に掛けられた 中で、左下の隅にあったこの絵を気に入って購入。売りたくなかったから こばに置いたと嬉しそうに仰った。体の具合が悪くて、杖をついていらした。 最期の個展になった。個展の題「小さな仏さま」が今にして深く沁みる。
 木葉井悦子さんは、種村季弘氏から紹介されて、銀座の画廊春秋の個展で 初めてお目にかかった。1987年だったか。病み上がりから恢復しつつある絵、 という印象を述べた。後日、そうだったと本人から聞いた。
 http://web.thn.jp/kbi/kibai.htm

 明解ではあるけれども、何と難解な論述だろう。セザンヌマチスは ある程度ふむふむと理解できたつもりだが、ピカソは困難を極めた。 ジャコメッティも同様。書かれていることは明解なのだが、そうだろうと 同意するのだが、ストンとは腑に落ちない。こちらの読みが未熟なせいだ。 この前に読んだ柄谷行人日本近代文学の起源』と同じだ。視線が根源的 な所まで届いていて、私の理解の光が届かない。再読の必要を痛感。 それにしても何と刺激的な著作だろう。

 柏木博『ファッションの20世紀』1998年、歌田眞介『油絵を解剖する』 2002年そして前田英樹『絵画の二〇世紀』2004年と、NHKブックスは いい本を出しているわ。

 ブックオフ函南店へ自転車で行く。講談社学術文庫柄谷行人を二冊。 『探求 I 』1999年13刷、『反文学論』1995年8刷、計216円。出かける時は 曇り、帰りは晴天。気持ちよい汗。午後ブックオフ長泉店へ行くが、手ぶら。

 ネットの見聞。

《 よく言われている通り、ネットの無かった時代の日本人は、 いまの人たちに比べてより多くの書籍やテレビ番組や映画に触れていたと 思う。でも、それ以上にわれわれは単にぼんやりしていた。つまり、 インターネットの普及によって最も盛大に失われたのは「なにもしない」 時間だということだよ。 》 小田嶋隆

《 ろくでなし子さん釈放。
  この世界に猥褻物など存在しない。
  猥褻物というのはそれを猥褻と思う人の頭のなかにしか存在しない。
  故に、一番猥褻なのは、まんこを猥褻だと考えた官憲ということになる。  》 池田清彦

 ネットの拾いもの。

《 70枚といわれた小説を70枚書いた時点で行き詰りました。 どうしたらいいのでしょう。 》