『 現代評論集 』つづき

 昨日につづいて『現代日本文学大系 97 現代評論集』筑摩書房1973年初版より。

《 人間は、美しいものの前に立ったときは、極めて単純な嘆声をしか発し得ない ものである。感性は、私たちにそういう嘆声を発させることで、眼前のものが美であることを 示すようにできている。このもっとも素朴な、しかし一番確実な鑑賞体験が、現代美術の 作品の前では拒否されるのである。現代美術の作品は、作品自体の充足と自律が非常に 希薄で、作品自体の美しさが私たちに嘆声を出させる場合よりも、作者の人間性や個性が 私たちを喋喋たる雄弁に誘う場合の方がはるかに一般的だ。だから私たちは、現代美術を見て、 わかるとかわからないとかは論議するが、美しいか美しくないかは忘れてしまう。作品の美 そのものよりも、作者の人間性や個性に捉(とら)われてしまうのである。 》  水尾比呂志「美の終末」昭和40年

 半世紀前、1965年に既に指摘されていたのか。工芸へも言及されている。

《 数多く開かれる工芸作家の展覧会で、私はほとんど美しい品物を眼にすることがない。 》

 この発表から十年。北一明の耀変茶碗を眼にしたのだろうか。

《 日本の仏像の歴史は、飛鳥時代に始ってほぼ室町時代で閉じる。(中略)もっとも純粋な、 深い、高い美をたたえたのは飛鳥仏である。 》

 これに対して岡本太郎の評論。

《 近世日本の小ざかしい、平板な情緒主義はいうまでもありません。大陸から直輸入され、 そのまま伝統の中に編入されて、わが国の最大の古典としてまつりあげられている、豪華で 壮大な奈良時代仏教美術などをながめても、素朴な段階にあった当時の日本とはそぐわない、 爛熟した大陸デカダンス文化の、おもく居丈高い気配に、なにか後味のわるさを感じたり しました。 》 岡本太郎縄文土器──民族の生命力──」昭和27年

 審美眼にこれだけの隔たり。

  ネットの見聞。

《 コレステロール値:「食事で変わらず」動脈硬化学会が声明 》 毎日新聞
 http://mainichi.jp/select/news/20150502k0000m040167000c.html

 ネットの拾いもの。

《 答弁は官僚、演説はスピーチライター、ツイッターは一太となると本人自身の声は ヤジぐらいしかないのか。
  その野次が「日教組日教組」 》

《 来年には今日という日は「憲法記念日」ではなくなっているかもね。 》