『生命の酒樽』つづき

 山田稔エッセイ集『生命の酒樽』筑摩書房1982年初版を読了。すーっと読んでしまう、うまい文章だ。 癖や臭みのない文章は、気持ち良い。「人間のいる風景 ──桑原武夫先生」から。

《 「パリの公園」のなかに、日本の名園とフランスの公園との違いについての興味ぶかい考察がある。 日本の名園には「ふくみ」があって、われわれは解釈を迫られ、精神は解放でなく緊張を強いられる。 そこは休息の場でなく、道場のごとき一種の「鍛錬」の場になっている。こういう庭には生きた人間の 姿はふさわしくない。美観を損ねるのである。 》 92頁

 「日本の名園」を、インテリア雑誌の「室内」グラビア写真に置き換えたくなった。チリひとつない 清潔な室内には人の姿かたちはなく、その気配もない。

《 「ところがこちらの公園では人間がその美しさの一要素、相当大きな要素をなしている。 たとえば無人になったリュクサンブールを想像してみるに、それは本当に美しいとは思われない。」 》  92-93頁

《 そのあげくに発見した、というより藁をも掴む気持ですがりついたのが、『フランス文学史』のなかで A・チボーデがフランス革命期について述べているつぎの一句だった。「革命の文学はあったが、 文学の革命はなかった。」 》 「バルザック紀行」230頁

 日本の近代・現代美術を思ってしまう。

《 まず私が注目したのは、フランス革命期に非常な発達をとげたジャーナリズムである。最初は個人 あるいは政党の政見発表の場であった新聞・パンフレット類は、やがて「意見」よりも「事実」の報道に 重点を移して行く。ジャーナリズムは目まぐるしい現実の変化について行かねばならない。同時に、 読者の関心も過去でなく今日、明日の出来事に向けられる。激しく変り行く現実のうちに「歴史」を 感じとる、そのような感覚をやがて民衆は身につけるようになるだろう。 》 231-232頁

 現在のことのようだ。

 2015年は時代が変わるまさにその年だと直感しているけど、昨日内野まゆみさんがメールで画像を 送ってきた、デザイン仕事が一息ついて筆で描いた絵に仰天。これはすごい。画像はまだ開陳できないが、 尾形光琳の反響というか。尾形光琳の屏風絵に見られる、デザイン的でありながら瑞々しい運動性が しっかり受け継がれている。彼女の独創が、この大きくはない藍一色の絵に息づいている。内野さんは、 下絵もなく、何にも考えずに描いて出来上がった、と言う。まさしく新しい扉を無心に開いた。 デザインからの、デザインと絵画の融合というか、絵画の新たな局面を粗描したと思う。なんと自由な。 私の即座の感想メールは「和のシュール」だった。
 きょう夕方、同じテーマの絵を送ってきた。描線はキリッと鮮明に引かれ、筆触の鮮度が格段に増した。 「鮮やか」を見る者に刻印する完成作品だ。これは素晴らしい。最初の鑑賞者になった幸運を喜ぶ。 驚くのは、その絵は葉書大。
 昨日の書き込みから。

《 美は関係性や運動性のなかに現れるものだと思うので、実に多種多様だと思う。 》

 クレー、バルテュスエッシャーら西洋のモダンアートの画家たちが追求してきたことを、 その先の極の向こう側から描いている。なんて言ってもワカランよなあ。

 昼まで、横浜からの視察、四十人あまりを源兵衛川へ案内。見送る時にポツポツ雨。やれやれ。

 ネットの拾いもの。

《 福山雅治結婚報道を見ていて思い出した事。昔のドラマ『一つ屋根の下』を私は見ていなくて、 見ていた人にどんな話だったか聞いたら、「ずっと江口洋介が好きで、その思いがかなわなくて、 振り向いたら福山雅治がいた」話だと一言でまとめてくれました。人生にそんなうまい話があるもんか と思いました。 》

《 夫婦揃ってフェラーリ

  二人しか乗れないから出かけるときは父弟、母俺で分乗
  家族皆で乗れる友達の家のセダンが羨ましかったが
  四人乗れる車は高いと言われ我慢してた。 》