大岡信『自選 大岡信詩集』岩波文庫2016年初版、三浦雅士の解説を読んだ。斬新な視点から大岡信の批評と詩の関係を 読み解いてゆく鮮やかな手腕に敬服。他者の大岡信論を寡聞にして知らないが、これが出た後で果たして出るだろうか、 と案じる。
《 鮎川[信夫]、吉本[隆明]が多かれ少なかれ政治的であったのに対して、大岡は非政治的であり、芸術派の代表に ほかならなかった。鮎川、吉本が詩人の戦争責任を問うたとすれば、大岡は詩人の芸術上の責任を問うたのである。 》 367頁
《 以上の事実をふまえるならば、『記憶と現在』という詩集は、いわば、詩人・大岡信の作品を、批評家・大岡信が 編集したものとして受け取られるべきなのではないか、と考えるのは自然である。(中略)これは詩人の直感である以上に、 批評家の洞察であったように思われる。 》 368-369頁
《 問題は逆に、大岡自身がそう仕向けたと思われるところにこそあるのだ。立ち入っていえば、批評家・大岡信が、 詩人・大岡信をそう受け取られるように造形したところにある。これが『記憶と現在』に漂うある種の韜晦の内実であって、 大岡は謎のうえにさらに謎をかけているのだ。大岡にとっては、これが詩人でありかつ批評家であることの実践だった。 》 376-377頁
《 なかでも「さわる」「マリリン」「地名論」の三篇は有名だった。(中略)だが、大岡の他の詩との対比でいえば、 三篇ともに理が勝っているとも思える。(中略)つらぬく論理は明瞭であって揺るぎがない。突きつめれば、読むものは その論理に打たれるのであり、ここでは詩人の手腕はむしろ批評に仕えているのだ。(中略)つまり名作というほかない これら三編は、批評をもって詩の核心としているのである。 》 379-380頁
おお、私が感じていた理が勝っている事情を見事に解明している。
《 比喩的にいえば、大岡は、詩と批評の交差点の中央に立ちつくしていたのである。 》 382頁
《 とりわけ『悲歌と祝祷』『春 少女に』の二冊は、掛け値なしに日本現代詩の最高の達成であるといっていいと、 私は思う。 》 386-387頁
《 大岡は、霧に、雲に、水の流れに包まれることを好む。ほんとうは肌でさわりたいのだ。 》 369頁
それにしても題が「ある愛の果実」とは、ちょっとたじろぐが、講談社文芸文庫並の三浦雅士作成の詳細な年譜の読むと、 ワカル。
ブックオフ長泉店で二冊。『大乗仏典6浄土三部経』中央公論社1981年新訂版函栞帯付、霞流一『奇動捜査 ウルフォース』 祥伝社ノン・ノベル2013年初版、計216円。
ネットの見聞。
《 「シン・ゴジラ」、私はこう読む 》 日経ビジネス
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/16/083000015/
《 夏目漱石に「素人と黒人」(大正3年)という評論があり、「黒人」は「くろうと」と読み現代の「玄人」のことです。 この時代、「玄人」に「黒人」を用いるのは漱石に限りませんでした。では漱石は今の「黒人」を何と表記したのか、 これは不明です。ちなみに「アフリカ」は「亜弗利加」と書いています。 》 初版道
https://twitter.com/signbonbon/status/770592115235487744
ネットの拾いもの。
《 東京「和歌山で発砲とか怖すぎだろ」
大阪「和歌山治安悪すぎやろ」
和歌山「 #がんばれ和歌山県警 」
福岡「福岡県外で珍しいな」
山口「発砲事件、福岡じゃないのか」
佐賀「福岡じゃないのか」
熊本「福岡じゃないのか」
大分「福岡じゃないのか」 》