「パウル・クレー」

 いつしか日射しが床の上に伸びている。太陽が低くなった(ようだ)。陽気よりも日射しに季節の移ろいを感じる。
 いつしか夜の帳も早く降りるようになった。

 本を買いたくなって昼前、ブックオフ沼津リコー通り店へ自転車で行く。相倉久人自選集『されどスウィング』青土社2015年 初版帯付(未読本みたい)を960円で、後は100円棚から文庫本。岸本佐知子『ねにもつタイプ』ちくま文庫2010年2刷、獅子文六 『コーヒーと恋愛』ちくま文庫2015年13刷、中山義秀『咲庵(しょうあん)』中公文庫2012年初版、ミネット・ウォルターズ 『遮断地区』創元推理文庫2013年3刷、ウィリアム・H・マクニール『世界史 上』中公文庫2013年19刷、計1500円。

 疑問は忘れずに記憶の片隅の留めておくと、ある時光が射す。『大岡信著作集 第三巻』青土社1977年初版をパラパラ 開いて気の向くままに拾い読みをしていたら、巻末近くに「大岡信・談」

《 それからもうひとつ、『悲歌と祝祷』で初めて、詩を歴史的かな遣いで書いています。(略)考えてみると、現代かな遣い よりも歴史的かな遣いで書く時の方が、いわばテンポがほんの少し遅いんですね。つまり喋っている音そのものではない 文字遣いがあるわけですから、ブレーキがかかった状態で言葉を書くこおtになります。今の自分の方法論としては、 詩は歴史的かな遣いで書かないとどうも落ち着かないなと思ったわけです。これは歴史的かな遣いの方が表記法として 正しいとか、昔からのものをそのまま受け継ぐのが正しいから、とかそういう理由とはちょっと違う。僕自身が詩を書く上での 必要性から、こうなったんです。 》 546頁下段

 そういうことか。半年ほど気になっていた疑問=大岡信の詩がなぜ歴史的かな遣いになったのか、が解決。

 流れで『大岡信著作集 第四巻』青土社1977年初版の目次を見て、「パウル・クレー 線と胚珠」が目に飛び込んできた。 昨日の谷川俊太郎『クレーの絵本』で谷川が詩を寄せていたクレーの絵「黄色い鳥のいる風景」への大岡の論及があった。

《 つまり、外的経験は彼に接触すると同時に、すでに彼自身のものであるのだ。彼にとっては、その意味であらゆる空間、 時間は悉く溶け合い、交錯しあっている。「黄色い鳥のいる風景」(一九ニ三年)では、海底から生えでた藻のような 流動的形体の植物によって画面が区切られ、夜のようなまた海底のような暗黒を背景に、それら植物の上に黄色い鳥がとまり、 画面の上方には白い雲がなびいて、黄色い鳥が一羽、さかさになって雲のへりを歩いている。 》 238-239頁
 http://www.seibidou.com/souko_shop/menu1/syousai/15081811544800

 パソコンのモニター画面で見る絵と昨日の『クレーの絵本』では色がまるで違う。大判の画集『アート・ギャラリー  クレー』集英社1985年初版を見ると、モニター画面のほうが原画に近いようだ。

 以下透徹した論考がつづく。例えば。

《 言ってみればクレーは、物を見て表現したというよりは、彼の内部にうごめいている生命の原形質を視覚化しているのだ。  》 239頁

 結び近く。

《 クレーにとって、ものの形とはどこにあったか。形は運動の中にしかなかった。彼の創造的なヴァイタリティは、 それ故自己増殖してゆく以外になかったのだ。形が運動を生み、運動が形を生み、したがって絵は力強い方向に向う以外に なかった。 》 248-249頁

 十三頁足らずの論考に見事に打ちのめされた。名論考だ。1956年7月。六十年前、既に私の拙考が先取りされていた。 当然、完璧なかたちで。陶然。そして呆然。理解魔だ。

 ネットの見聞。

《 自民党改憲草案を批判すると「揚げ足取りばかりしていないで対案を出すべきだ」的な脊髄反射の決まり文句が 返ってくるわけだが、そもそも自民党改憲草案自体が日本国憲法に対する揚げ足取りなのだからして、 当面、「現行憲法で問題ない」という以上の対案は不要だと思うぞ 》 小田嶋隆
 https://twitter.com/tako_ashi/status/783140950876889089

 ネットの拾いもの。

《 小役人の宴、安全、安全と狂ったように吠えていた案件
  非加熱製剤 世界最大の薬害エイズ感染      天下り先の製薬会社
  年金    世界最大の消された年金5000万件 誰も使わないグリーンピア天下り
  原発    世界最大の原発爆発ダブル 電力関連会社 天下り
  豊洲    世界最大の汚染未処理市場     ←今ココ
  東京    世界最大の葬式オリンピック   》

《 豊洲は水位と推移を見る為だけの施設となりました。 》