「贅沢に近づく」

 昨日の岡倉天心茶の本』つながりで、中村雄二郎対話集『現代芸術の線戦略』青土社2001年初版、中川幸夫との対話 「贅沢に近づく」を読む。中川幸夫が利休の待庵を訪れたときのことを語っている。

《 二畳の空間が広く、深く……。ほかでは感じられない思い。 》

《 極限の、何もないけれど実に深く考えさせられる空間です。 》

《 中村 ヨーロッパでは、芸術において美と崇高というのは両方なくてはならない要素なのです。ところが美というのは わかりやすいけれど、崇高はわかりにくい。一見すると奇怪な感じすらする。しかし崇高の要素がないと美はどんどん 拡散していって、惰性的になって、まさにきれいごとということになってしまう。しかし、きれいというのは決して美そのもの ではないし、贅沢でもありません。
  中川さんの作品は、すごいけれど気持ちが悪いという人がいます。崇高の要素というのは、もともと不気味なものです。 きれい、きれいではないのです。
  中川 美というのは人の心に感動を与える。訴える。しかし、きれいというのは平面の横滑りという感じですからね。
  中村 日本には器用な人が多すぎる。器用というのはどうしてもきれいごとに流れやすい。またそれが世の中にうける。 すると、ある意味では野暮だけれども、崇高なものにまっしぐらに歩いていく力を失ってしまうのです。 》

 崇高。未だによくわからない。

《 中村 常に自分を脱皮しようとすつならば、一回ごとに自己を変えなくではならない。
  中川 横滑りではなく垂直の自分です。
  中村 垂直とはいままでの自分をつき破り続けることです。中川さんの作品の力強さはそこにあるのだと思う。垂直というのは 落ちるかもしれない危険をはらんでいますが、その冒険をしない人は自己模倣して風化していくんです。 》

 陶芸家・書家の北一明の個展ごとの挑戦を思う。「君とは一心同体だ」と言われたこともあった。有難迷惑だったが。

《 中川 花ならば朽ちていくまで見てやる。バラ一本にしても、一番表情がいいのはもうしおれるというときです。 その表情を過ぎたら明日はだめ。そういう見届け方をすると、葉っぱ一枚でもおろそかにできない。花は、人間に最良の要望を むこうから与えてくれる。それを逃すまじとする。 》

 岡倉天心が聞いたらどんな態度を示すだろう。『茶の本』、「花」の章を再読。頷くだろうとは思うが。

 明日霞が関農水省で「世界かんがい施設遺産」登録証伝達式に参列するので、スーツを試着。今年初めてなので体に合うか 気になったが、ぴったり。やれやれ。まだ買い替えることはないわ。これを着ると皆さん、エッという表情を浮かべる。日々いかに いい加減な服装でいるかを実感。この夏ズボンの尻が透けている(擦り切れている)と友だちから注意された。カーディガンは 両肘に大きな穴。注意されるが、「これがファッション」と言い張ってそのまま着用中。外出時にはさすがに着ない。

《 中村 贅沢とは、物質的な豊かさとは別次元のことですから。 》

 いわゆる贅沢なことを体験した記憶がない。一般人の私には縁がない。今の不足気味の生活で十分。

 ネットの見聞。

《 12/9・10第5回グリーンジム「松毛川千年の森づくり」を実施 》 グラウンドワーク三島
 http://www.gwmishima.jp/modules/information/index.php?lid=1592&cid=34

 伐採に参加。ほんと、見違えた。川向こうが見通せる。

《 マドンナが<ビルボードウーマン・オブ・ザ・イヤー>を受賞、女性であることについてユーモアと見識あるスピーチを披露 》 JAPAN billboard
 http://www.billboard-japan.com/sp/d_news/detail/45315/2

《 へたくそドラムかと思ったら、かっこよすぎるジャズに変わっていくフラッシュモブに感動  》 You Tube
 https://www.youtube.com/watch?v=uu9P1vdPK8Q

 ネットの拾いもの。

《 春を感じる 》 クニャンシィ
 https://twitter.com/knyanchy/status/579926735140995073