國分功一郎『中動態の世界──意志と責任の考古学』医学書院2017年5刷を少し再読。
《 中動態と対立するところの能動態においては──こう言ってよければ──主体は蔑ろにされている。「能動性」とは単に過程の出発点になるということであって、 われわれがたとえば「主体性」といった言葉で想像するところの意味からは著しく乖離している。インド=ヨーロッパ言語では、「存在する」も「生きる」も、 「主語から出発して、主語の外で完遂する過程」だったと考えられるのである。 》 90-91頁
《 そこでは主語が過程の外にあるか内にあるかが問われるのであって、意志は問題とならない。すなわち、能動態と中動態を対立させる言語では、 意志が前景化しない。 》 97頁
《 能動態と中動態の対立は意志の概念を強く想起させるが、能動態と中動態の対立はそうではない。そして、能動態と中動態を対立させるパースペクティヴが 残存していたギリシア世界には、意志の概念が存在しなかった。この事実は、能動と受動というわれわれの思考の奥深くで働く対立を、能動態と受動態という 文法上の対立が生み出す効果として考えようとする本書の試みの妥当性を裏付けてくれるものとも思われる。 》 103頁
《 言語は思考の可能性を規定する。つまり、人が考えうることは言語に影響されるということだ。これをやや哲学っぽく定式化するならば、言語は思考の可能性の 条件であると言えよう。 》 111頁
《 だが言語が、思考されうることに、つまり思考の可能性に作用するのであれば、その多種多様な作用が展開するための場が設定されなければならない。(中略)
では、その場とは何か? それは言語が語られ、思考が紡ぎ出されている現実そのもの、すなわち、社会であり歴史に他ならない。 》 111-112頁
午前は介護施設へ。午後は入院している友だちの手足になってあちこちへ。源兵衛川を見ていた友だちが「猿がいる」と。見つけられなかったが、目撃談多数。
その合間をみてブックオフ長泉店で二冊。有栖川有栖『菩提樹荘の殺人』文春文庫2016年3刷、山前譲・編『山のミステリー傑作選 山岳迷宮(ラビリンス)』 光文社文庫2016年初版帯付、計一割引194円。
東京新聞文化欄、樋口裕一「65歳になったら…○○しなくていい宣言!」、「7 ゴミ屋敷の整理?」から。
《 そして、今、私の家には必要な家財道具のほか、不必要な日用品、そして大量の本とCDとDVDがあります。 》
不必要な日用品とDVDはほとんど無いが、本とCDおよびレコードは、まあ沢山ある。美術品は、安藤信哉と内田公雄の作品は、遺族の求めに応じて返却。 おかげで収蔵庫はがらがらに。かといって穴埋めは考えていない。味戸ケイコさんの絵を買うくらいだろう。身軽になった。
http://web.thn.jp/kbi/ando.htm
http://web.thn.jp/kbi/utida1.htm
ネット、いろいろ。
《 問題は過去の判断は間違っていた、という総括をしない点であって、一度でも間違えた者は許さない「恨」「憎」で世界を回したらそら戦争ですわ 》 kayama masashi
https://twitter.com/k_masashi/status/952726010482454529
《 会話で、ソース・エビデンスを示せないことは喋っちゃダメというルールにすると、どのくらい会話は続くかな。 》 森岡正博
https://twitter.com/Sukuitohananika/status/952747137053282304
《 せっかく賢明な先人たちが守ってきた平和憲法を、今国会や内閣にいるどうみても阿呆にしか見えない人たちに変えさせてはいけない。 》 Koichi Kawakami
https://twitter.com/koichi_kawakami/status/952968681570451456
《 バカの寄り合いをわざわざ放映することはない! 》