『道元の言語宇宙』三

 寺田透道元の言語宇宙』岩波書店1974年初版、「III 『正法眼蔵』の思惟の構造」を読む。

《 ──われわれはこういう風に、道元の言語表現が実際にどうなっているかを確かめながら、そしてそれを根拠として道元の思想の内奥に、ということはその構造に ということだが、それに参ぜねばならぬので、ひとによっては煩わしく感ずるかも知れない。 》 100頁

《  かくて「意は意をさへみる。句は句をさへみる」と言えることになるのだが、ここに言明されているのは、根本的には、道元の禅思想の、全現実は全体が 一の仏として成立っており、その中の、それ自身また仏である個別存在は、他と曖昧に融合することのない個体として露堂々、明白々の存在しかたを持つという思想の、 言語の問題に対する適用、もっと正確には言語表現の問題を機として闡明される存在の構造なのだ。あえて言おうなら、観念や思想や「念慮」と呼ばれるものは それ自身として存立生動しており、言葉に盛られる、あるいは詰めこまれる、要するに言葉の型で切り抜かれるべき内容とか実体とかいうものではなく、言葉は言葉で 自立しており、「念慮」の伝達の道具としてどこかに用意されるか、転がっているようなものではないということである。
  そこからあの恣意的ともあまりに強引すぎるとも見える言葉の使用法は生れるのであり、かつ許される。
  すなわち、言葉が言葉として完全な自立性を持ち、伝達すべき内容、「念慮」に仕えるべき道具でなく、また一方「念慮」を自分の寸法に合せて切断する権限を持つ 何か強圧的な定式でもない以上、それはどのように切断され、組みかえられ、未聞の使い方をされようと、自分の神聖さや権威を犯されたことにはならず、そこで かえってそれはその新しい生命を獲得すると見られるからである。  》 105-106頁

 昨日ちょっと引用した加藤郁乎の俳句作法を連想。私は四十年ほど前、それを”言葉の成層圏から霊層圏へ”と言い表した。

《 「念慮」、思想、観念は時のうちに現実化されるものとしてひとつの時であるが、それは現にあるもの、理法の具体化として現にあるものである。「語句」、 言語表現はこれに対して、表現をはばみ、あるいはそそのかす厄介なからくりを上に越えた、独立自尊の形相であるが、それも時の中で現実化されるものとして 一個の時、「時々の時」である。「念慮」が徹底的に濃縮純化され、それと寸分の狂いもなく合致した表現形態をそれが獲得するのは、一切の束縛がそこで 払いのけられ、「念慮」も「語句」も自由を得たということを意味するが、それも有時の中で現実化されることに他ならず、一個の時であることに変りはない。 》  108-109頁

《 すなわち、主格と述語と補語という構文によって暗示される、というよりむしろ強制される存在の関係の一方向性と非可逆性を、道元は、かれ自身、その世界認識 から排除したがっていた、ということである。 》 111頁

 わくわくする展開だ。根が粗忽者、写し間違えを恐れる。一字発見、訂正。ほっ。

《 そしてそのわれが法として、法である全一存在に合致するというわけだ。 》 117頁

《 こういう関係だと知れると、置き去りにした一節のうちの最後の句、「以命為鳥、以命為魚」の仮定された主体は、誰か、何かの人格の作用に俟たぬ限り何物も 作られず生れないとする先入見に支配されているわれわれが、ついそう思ってしまうように、超越的ではあるにせよ一人格である造物主というようなもの、 ひとが自分の姿に似せて想像した個の絶対者のようなものであってはならないということが明らかである。 》 117頁

《  存在論哲学者として道元が、全存在を問題とし、それをわれわれの前にえがき出すとき、大抵の存在論者がそうであるように、自分を自分の考察対象である 全存在の外、とは言わないまでもその頂上の、いわば造物主の位置においているような印象を全く与えず、自分をその中にいるものとして扱いきっているかのように 感ぜられるのは、第一には、こういう個性的な、基づくところ深い文章技術の効果によっている。
  そこには長く一神教信仰の下にあった風土とは全く違った、一切を包摂しつつ一切そのものに等しい、しかもそれが、智としてそうだとされる至高存在、間違いの ないように言い直せば、次第に智そのものと解釈され出す知の体得者、覚者の光被のもとにあった一風土の反映がある。
  中国の禅僧のいう意味での仏向上事が一つの考えとして可能なのも、仏陀がキリストのようには人格でないからであろう。キリスト教圏に反キリストはあっても、 超キリストがないのはこのことの反面である。 》 121頁

《 これに対し、仏陀は、その死において、抽象と化した、そしてそれは自然だったのである。寂滅は何の質量も持たない、それは存在するものであるより、存在の状態 である。釈迦牟尼の人格は、その肉身とともに、この状態において、状態の中へと消えてしまったのだ。 》 121-122頁

《 あえて言えばここの道元は仏向上人ではなく、菩薩にすぎない。そして菩薩として問題を論ずるところにとどまると言えよう。みずからわれを仏としていないことは 、まず確かである。 》 125-126頁

《 沙門道元とはかれの自称だが、かれは自分をそう規定しつつ、他方、仏祖の内証の開示者である立場を引きうけるという奇妙な立場自分のそれとしたと言えるのでは なかろうか。 》 127頁

 ”奇妙な立場自分のそれとしたと”は、”奇妙な立場を自分のそれとしたと”ではなかろうか。”を”一字を追加。

《  「かくのごとくなるがゆへに、即心是仏不染汚即心是仏なり、諸仏不染汚諸仏なり。」(『即心是仏』)
  この最後の二句は、すべてのテクストが句点によってそう読むと仄かしているように、「不染汚」を形容詞として訓むことも無論不可能ではないが、これを動詞と して見て、「即心是仏、即心是仏を汚染せず、諸仏、諸仏を汚染せず」と訓むこともまた十分許されるだろう。 》 130-131頁

 玉城康四郎・訳でこの箇所を読む。

《 このような次第であるから、即心是仏はただ即心是仏、一点のしみもない。諸仏はただ諸仏、一点の汚れもない。 》 第1巻144頁

 ”かくのごとくなるがゆへに”は、玉城の本では”へ”は”ゑ”に。不染汚は”ふぜんな”と読む。

《  こういう風に時処を撥無され、個別性を撥無されて、諸仏、さらに諸法は一仏に帰するのである。
  さきの引用で、われわれは是即という虚辞が撥無され、心と仏のみが残るのを見たが、今や心も撥無され、仏による、仏における一元化が行われるのである。
  しかもその仏は大日如来でも阿弥陀如来でもなく、釈迦牟尼仏なのだ。無上等正覚者なのである。
  智即全現実即存在という等式がここで成立つと言える。 》 131頁

《  「仏祖の往昔は吾等なり、吾等が仏祖ならん。仏祖を仰観すれば一仏祖なり。 」
  これほど、『眼蔵』の中で僕を強く打った言葉はないのである。なぜこれらが僕を打ったかと言えば、それが第一、観念の表現であるより先に言葉であり、その言葉に よって世界の入り口に釈迦牟尼仏が立ち、その終局にも釈迦牟尼仏が立ち、しかも世界は一つの巨大な球状をなし、前後に立ちはだかった筈の釈迦牟尼仏もその中に 包摂せられ、球状のこの世界の他に何もなくなり、この球状の中では時間は「経歴」としてしか存せず、それも生動こそすれ、いずこから来て、いずこにか去ってしまう 流体ではなく、世界空間と合同だという、この世界の澄明な健康さが、他のどこにも見出されないものだったからである。 》 131-132頁

《 釈迦牟尼仏をそのうちに持ちつつ釈迦牟尼仏そのものと同一化されるこの単一世界が、しかしけして一元的均質なものでなく、また時間を撥無しながら生成を とめていないこと、そのことにわれわれは改めて留意しなければならない。 》 135頁

《  かくて時は実在ではあるけれど実体を持たず、機能として、透明に、可逆的にも、自在に運動して全宇宙をみたし、そういうものとして存在する。
  ついでに言えば、宇宙という漢語も全空間を現す文字の宇と、至大の時間を現す文字の宙との熟語であることに、道元を論ずるときの常で今度も何度目かの注意を 僕はしておきたい。 》 141頁

 昼寝。熱中症ならぬ知恵熱予防。クールダウン。

 ネット、いろいろ。

《 野末なる 三島の町の くっころ市長 》 ネットゲリラ
 http://my.shadowcity.jp/2018/08/post-13688.html#more

《 「ボランティアですから労働基準法の管轄外となります。労働基準法では一日の労働時間や休憩時間、交通費のルール、最低時給などが 細かく定められていますが、ボラインティアはその枠内でないこともお伝えしておきたいですね」真夏の東京の屋外で……そらアカンやろ 》 140B中島
 https://twitter.com/maido140b/status/1025930851798798336

《 根本的なことを聞くけど、自民保守派やネトウヨらは日本の少子化をどうしたいの? 愛国アカウントでもいいから、少子化どうしたいと思ってるの? (分からんから聞いている) 》 森岡正博
 https://twitter.com/Sukuitohananika/status/1025920616807854081

《 平成30年度武雄市職員採用試験 求めない人材 》 佐賀県武雄市
 http://join-takeocity.com/no-want-you/