マイケル・フリード「芸術と客体性」(『批評空間』1995年臨時増刊号収録)を読んだ。一読しただけでは理解が届かない、私には。【注】4が一昨日のクレメント・ グリーンバーグ「抽象表現主義以後」に言及しているのでそこを少し。
《 それが主張しようとしているのは、本質──換言すれば確信を強要するもの──は、近い過去の強力な作品によって、大いに決定されており、 またそれゆえそれへの応答において継続的に変化するものである、ということだ。絵画の本質とは、削減できないような何物かではないのだ。むしろ、モダニストによる 絵画の仕事は、いま現在、その因習だけが、彼の作品のアイデンテイティを絵画として確立し得るような、そういった諸因習を発見することなのである。
グリーンバーグは、以下のように加えて言うとき、この立場に近づいている。「私の見るところでは、ニューマン、ロスコー、スティールは、単にモダニズムの 絵画の自己-批判を、その昔ながらの方向で継続することによって、それを新しい方向へと変えてしまったのだ。今、彼らの芸術を通じて問われている問題は、もはや 芸術もしくは絵画芸術を、それに見合うものとして構成するものは何か、ということではなくて、良き芸術を、それ自体として削減しえぬように 構成するものは何か、ということである。否、むしろ、何が芸術における価値もしくは質の究極の源泉なのか、である。」しかし、私なら、こう主張しよう。 モダニズムが意味してきたこととは、その二つの問題──何が絵画芸術を構成するのかと、何が良き芸術を構成するのかという二つ──は、もはや 切り離せない、ただ第一の問いは第二の問いの中へと消えてしまう、もしくは徐々に消えていく傾向にあるのだ、と。(私はもちろん、私自身の「三人のアメリカの画家 たち」の中で提唱したモダニズムの解釈と、ここは対立していることになる。) 95頁上下段
一昨日引用した箇所を再掲。( )の人名は私の老婆心からの補筆。同じ訳者(川田都樹子・藤枝晃雄)だが微妙に違う翻訳。
《 私の見たところでは、(バーネット・)ニューマン、(マーク・)ロスコ、(クリフォード・)スティールは、モダニズムの絵画の自己-批判をその元来の方向で ただ継承することによって、それを新しい方向へと変えてしまったのだ。彼らの芸術において今問われている問題は、もはや、芸術もしくは絵画という芸術をそれ自体 として構成するものは何か、ではなく、良い芸術をそれ自体として構成するものは何か、ということである。芸術において価値もしくは質の究極の 源泉とは何であろうか。 》
朝、グラウンドワーク三島の三人と車で出かけ、群馬県甘楽町(かんらまち)の農業用水路などを視察。片道三時間。午後八時半帰宅。ふう。
ネット、いろいろ。
《 14 女のエクリチュール / 工藤庸子 》 羽鳥書店
http://www.hatorishoten-articles.com/kudoyoko/14
《 友達が「AV女優みたいな駅名」と言って以来、天王洲アイルを性的な目でしか見られない 》 ゼロ次郎
https://twitter.com/zerojirou/status/1070130943447322625