「モダニズムの再検討」(『批評空間』1995年臨時増刊号収録)、浅田彰、岡崎乾二郎ら五人による討論会の「セッション2 フリー・ディスカッション」を読んだ。
《 浅田 いままでの議論を受けてもう一度整理しておきましょう。シンギュラーな作品が純粋意識に対して現象的に立ち現れるということを厳密に問うていくと、 リテラルな次元とは別なところで、幾つかの空間的に共存しえないものが共存しているように見えるとか、時間的に相容れないものが実は重ねられてしまうとか、 そのズレのところからしかシンギュラーな経験は立ち現れてこないということが明らかになる。しかし、少なくともフリードの場合、それをなんとか現象学的な意識の 瞬間性にギュッと畳み込もうとする。だから、そこで無理に畳み込まれたものを、空間軸に沿い、あるいは時間軸に沿って多元化していくということはもちろん重要だ。 しかし、そのときにもう一回リテラルな次元に戻っちゃって、だからいろんなジャンルのものを重ね合わせれば面白いだろうとか、いろんな歴史的リファレンスを コラージュすればいいんだろうとかいうふうにやっちゃうと、すべてはポストモダンな記号のゲームのなかに雲散霧消してしまう。実際、フリード以降、またとくにロウの 『コラージュ・シティ』以後は、そういうリテラルな多元主義としてのポスト・モダニズムに流れたわけでしょう。 》 325頁上中下段
シンギュラー:singular=並外れた、まれに見る
リテラル:literal=文字(字義)どおりの
《 浅田 もともとアートならアート、建築なら建築を、ある自律的な領域として考えるために、いろんなことをやってきたあげく、一方では、リテラルな多元主義の ほうに流れた結果として、ポストモダン消費社会のなかに散逸していくということが起こり、他方では、その後ある種のモダニズムみたいなものが復活してきて、社会的な 有用性とか、PCとかが、少なくともプレテクストとして要求されるようになって、そこでも危機にさらされている。結局のところ大文字のアートや大文字の建築は ほとんど死んでいるわけですね。それはもともとそういうものの自律性を考えるのが間違っていたということなのか、たんに凡庸な誤読による堕落が起こっているという ことなのか、どっちなのか。
岡崎 ぼくは後者だと思いたいですね。 》 332頁中段
PC:political correctness=政治的に正しい言葉遣い
プレテクスト;pretext=(…のための)口実
《 岡崎 いまの浅田さんの発言を受けて言うと、おそらく美術でも建築でも、批評の方法としては、リテラルな戦略というのは有効だと思う。(中略)逆に言えば、 単独性を気取るレトリカルな批評は許し難い(笑)。
浅田 それは小林秀雄になるわけでしょう。 》 334頁上段
レトリカル:rhetorical=修辞的な、美辞麗句の
《 浅田 そのためには、批評は少なくとも形式主義的でなければならない。特権的な主体が、この作品は私に何かを語りかえているとか言ってみせる、そういう 小林秀雄的なレトリックで逃げることは許されない。 》 334頁中段
《 岡崎 そもそも、モダニズムというものが一定の歴史的な展開をもっちゃった後は、当然その図式なかで作家が思考してしまうから、かなり深読みしないと可能性が ない。フラーなんかは、その意味では例外的に欄外にあった。美術でいえば、ナビ派の生き残りだったボナールなんかは、そういう部分に面白みがあるんじゃないか。 されに言えば、たとえばグリーンバーグはロスコを見て、ロスコは、ヨーロッパの伝統から離れ、ニ○世紀になって久し振りに大芸術に向き合っていると書いている。 あの場合の大芸術というのはヴェネツィア派だと思うけれど、ぼくはロスコは別に面白いとは思わないけれども、ヴェネツィア派はいいと思う。
松浦寿夫 それはステラなんかも考えていることでしょう。
岡崎 ステラはルーベンスでしょう。
浅田 カラヴァジッオとか。
岡崎 ヴェネツィア派、特にティツィアーノの絵の描き方はまったく分裂的で、最初に画面全体の構造を決定しないで描いていくわけですよ。それこそ最初は色彩を 適当に並べて画面を複雑な状態にしておいて、それとは別に人物の物語をつくって、その複数のセリーをもう一回画面のなかで重ね合わせるんです。 》 338頁下段〜339 頁上段
《 岡崎 「いま、ここ」というのは、そういう複数の状態の確率的な重ね合わせの問題なんです。
浅田 その意味で、本来、モダニズムというのは「いま、ここ」は複数であるということを言っていたはずだったんだけど。 》 343頁上段
《 岡崎 では、どうすればいいのか。まずヴェネツィア派の絵を見てください、と(笑)。確率的ですよ、ヴェネツィア派の絵は。もちろんセザンヌの絵も。
浅田 セザンヌの絵はほとんど量子力学的だからね(笑)。場の量子化をやってしまっている。
岡崎 バーンと一枚あるなかに、全体の空間、これから発生してくるだろう空間が確率的に見えるわけです。そこでいま現象的に知覚されるものは確率的な全体性 でしかない。ちなみにトゥウォンブリーは断片的に解体したかもしれないけど、そういう確率的な部分がないわけですよ。ケージにしても同じ欠点がある。ところが、 断片というのは、確率的に、相互に矛盾するような複数の全体性を喚起するというか、ジェネレートする部分がなければ断片と言えないわけで……。
松浦 パラディグムの広さが大切なんですよ。
岡崎 そうそう、矛盾するパラディグムの重ね合わせがなければ。確率的にはらないから。
松浦 パラディグムが全然ないときは、シンタックスが物象化されざるを得なくなってしまうからね。
岡崎 そうなんですよ。いま、妙な実存主義が復活する気配があるから、これもちゃんと言っておかないとね。「雨が降ったかもしれない、にもかかわらず私は 晴れの世界に生きている」と言っちゃ駄目なんで、七○%の晴れのなかに三○%の雨が混じっているとか、そういう知覚をリアルと感じる能力を鍛えてもらわないと、 「いま、ここ」の話になっちゃう。
浅田 というか、「いま、ここ」しかないんで、しかし、その「いま、ここ」は、複数の状態の確率的な重ね合わせでしかないということですからね。 》 343頁中下段
ジェネレート:generate=引き起こす、生成する
パラディグム:paradigm=ソシュール派記号学の用語。英語読みは「パラダイム(範疇)」。ある場所に置くことのできる要素の候補をまとめて範疇(パラダイム) と言う。
シンタックス:syntax=論理学で、ある言語の文を記号を用いて表し、意味と指示対象は無視して記号配列の関係だけに注目し、その言語の構造を明らかにしようと する分野。言語学で、単語など意味をもつ単位を組み合わせて文を作る文法的規則の総体。
これにて『批評空間』1995年臨時増刊号「モダニズムのハードコア 現代美術批評の地平」を読了。配慮の行き届いた、じつに濃い内容だった。理解の届かない論文も あったが、ま、それは私の能力不足。
昨夕はグラウンドワーク三島の理事会。今年は設立以来最悪の年だった。が、そんなときに助けの手を差し伸べてくれる人がいる。ありがたい。来年は再び良い年に。
正午前、”Pink Martini (with singer Storm Large) - Amado Mio”、 5,000,636 回視聴。年内に500万回視聴を達成すると予想(願って)いたが、まさかのスピード。 ビックリ。7月7日午前9時に2,624,525回視聴。嬉しい年末だ。
https://www.youtube.com/watch?v=sCbzWiJLVhk
もうひとつ、好きな”Santana - Corazon Espinado ft. Mana”は桁違いの95,689,247 回視聴。いつ一億回視聴を達成するか、目が離せない。
https://www.youtube.com/watch?v=t6omUxqhG78
お昼、雲行きが怪しいので洗濯物を家の中へ。ほどなくして雨。ここだけ雨。降雨予想は0%。おいおい。夕方になって止む。夕日。
ネット、いろいろ。
《 すぐに小さな論点に引っかかってそれは違う、と言わずに、大局的に構えて話の全体を受け止めて核心部分を議論し、ところで、と細かいことを後で指摘する。 そんな大人に、僕はなりたい。 》 千葉雅也
https://twitter.com/masayachiba/status/1076809168638533632
《 The Public Times vol.2〜Chim↑Pom卯城竜太 with 松田修による「公の時代のアーティスト論」〜 》 美術手帖
https://bijutsutecho.com/magazine/series/s16/19007
《 陛下の誕生日の言葉を安倍さんはどう聞いたのだろう。人の話を聞かないし、聞いても理解できないことは国会を見て知っているが、あのね安倍さん。 陛下は品があり、強い言葉を使わず、婉曲に表現したけれど、要するに「平和はいいね。戦争しないでね」と言ったんだ。誰に?って安倍さん、あんたにだよ。 》 立川談四楼
https://twitter.com/Dgoutokuji/status/1077045503555133441
《 「ふしだらな娘ですが〜」に対して
「よく存じております」って応じたら娘さんがどんな顔をするか見てみたい。 》 デッドセクション
https://twitter.com/ACDCSection/status/1077035564195504129
《 クリスマスイブの「イブ」は「イブニング」 》