『意味がない無意味』七
千葉雅也『意味がない無意味』河出書房新社2018年初版、「 V 分身 」「VI 性」を読んだ。「性」の章、「マラブーによるヘーゲルの整形手術──デリダ以後の 問題圏へ」が思考にぐっと深く食い込んできた。
《 マラブーによれば、可塑性は、状況に応じていくらでも異なった存在のしかたになること、しばしば「柔軟性」と呼ばれることではりません。柔軟性は、たんに 受動的であり順応的でしかない。しかし可塑性には、能動的な抵抗性があるのです。(中略)現実的にありうる変形・変態とは、制限なしで柔軟なのではなく、 既存の形態による抵抗を保持かつ廃棄(=止揚)するようなプロセスでなければならない。このことが可塑性の条件です。 》 247頁
《 さて、こうした可塑性の弁証法をそのリミットにまで激化させると、「破壊的可塑性」というテーマに至ります。 》 247頁
この件(くだり)に北一明の焼きもの作品を連想。机上には小さな盃、『北幻想玉油滴耀変斜傾彫文乳頭盃』がある。「破壊的可塑性」の稀有な例と思う。 盃の側面は細かい線刻で斜めに彫刻されている。その上に釉薬が厚くかかっている。焼成により釉薬は「油滴耀変」に。厚い釉薬は垂れて乳頭(釉垂れ)を形成している。 高台脇から滴り落ちた釉薬が、高台底に偶然接着し、滴の玉(たま)となっている。
《 このスタンスは『エクリチュールの夕暮れにおける可塑性』で明言されており、そこでマラブーは、レヴィナスとデリダを並べて批判しています。レヴィナスと デリダの思想は、つまるところ、いずれも超越論的他者論であって、それらは最終的にある種のメシアニズムに訴えて準ー宗教化してしまう。こうした──ユダヤ的な ──方向性にマラブーは抵抗し、内在的他者論を考えようとするわけです。 》 250頁
《 こうした破壊的可塑性の考えが現代哲学の新地平であるというマラブーの自己主張を、少なくとも僕は、いったん愚直に受けとめています。 》 257頁
《 マラブーの可塑的世界は下部構造であり、デリダの郵便的世界はその上部構造である。痕跡は、決してア・プリオリに反復可能なのではない。痕跡は、その可能性が ──爆発に至るまで──激化しないかぎりにおいて反復可能なのです。 》 263頁
北一明の、焼きもの焼成において耐火温度の限界を超えて壊れる時点を実験し、焼成の限界を見極め、壊れるギリギリのところで焼成を止める作業を連想。
そして巻末の「力の放課後──プロレス試論」がぐっと興味深い視点で瞠目させ、掉尾を飾る。
《 プロレスラーは、抑圧の(実はひじょうに不安定な)バリアの手前へと回帰することを、つまり、みみっちい生存競争的現実の手前へと、我々の「かつてあった 近いところ」へと、近所へと、近所の石塀や校庭や河川敷へと、そこを踏み台にして成長してしまったあらゆる経験が自己破壊的である子供の弱さのただなかに 回帰することを、その全身で呼びかける。 》 287頁
《 根本的にあるのは、非人称的な力の溢れに占領されてしまうという受動性だ。そして、その受動性の速度を破滅に至らせないために、能動的にブレーキを作動させる。 》 288頁
北一明の創作態度、創作過程を連想したが、これは味戸ケイコさんにも通じる。いや、私が関心を寄せ評価する美術家たちに共通することだ。
『意味がない無意味』読了。
昼前、源兵衛川中流水の苑緑地・かわせみ橋上流部の茶碗のカケラ、ガラス片を拾う。目視したかぎりでは無くなった。秋にはまた川底から出るだろうけど、満足。 正午過ぎ帰宅。一汗。パンツだけになる。気持ちいい。
昼食後の歯磨き中に友だちから電話。望んでいたアルバイト先に採用が決まった、と。ブクブクした口でおめでとうを伝える。ああ、いい日だ。
ネット、うろうろ。
《 私に衝撃を与えたミステリ10選
Xの悲劇
獄門島
幻の女(アイリッシュ)
孤島の鬼
死の接吻
人形はなぜ殺される
火刑法廷
11枚のとらんぷ
ナイルに死す
サマーアポカリプス 》 猟奇の鉄人
https://twitter.com/kashibaTIM/status/1099103399079890944
未読は『死の接吻』アイラ・レヴィン。それに替えて入るのは『虚無への供物』中井英夫。
《 アフター島荘だとこんなところ
グラン・ギニョール城
北の夕鶴2/3の殺人
星降り山荘の殺人
QED 式の密室
日本硬貨の謎
ROMMY
鉄鼠の檻
吸血の家
封印再度
消失!
誰彼 》 猟奇の鉄人
https://twitter.com/kashibaTIM/status/1099244709166235648
「10選」は内外取り混ぜ。「アフター島荘(島田荘司)」は国内作品のみだけど、既読は『日本硬貨の謎』北村薫、『誰彼(たそがれ)』法月綸太郎だけ。
《 善意についての勘違いはよく見聞する。善意は、自分がよく見られたいから(自己満)でも、気が咎められるから(寝たふり、仕方なく)でもない。 自身が幼児期からされてきたことを(恩返しに)するのである。されて嬉しかったことは、彼らもまた誰かにしてくれるだろうという経験的判断なのである。 》 中島 智
https://twitter.com/nakashima001/status/1099306559543234561