閑人亭日録

「北一明作作品光芒幻想美譚 3」

 その昔北一明から頼まれて書いた北一明作品についての拙文を(恥を忍んで)ネットに公開。その3。

《   「3 北一明「耀変」──天極(てんごく)の構造」

  北一明氏の耀変作品の深い魅力をどう表現したらよいうのだろう。杳(よう)から耀へ、耀から杳へ変幻する、また杳と耀が共存するその多耀かつ多杳な魅力を。 そして色彩の多様さだけにとどまらぬ魅力を。
  北氏の耀変には「雷光耀変」「北幻想玳皮耀変」「北幻想蛍斑耀変」「北幻想玉葆光耀変」「北玉虫虹彩耀変」「北金霞葆光紅葉耀変」等がある。私の所持している 作品は、「北幻想玉天瞳耀変乳頭茶碗」である。
  その杳局面の色彩を何と呼んだらよいのだろう。茄子紺紺青鉄紺鉄納戸青黒そしてミッドナイトブルー等を、とりあえずの色彩と判断したいけれども、いざとなると 断言はおろか独断もなし得ぬことに気づくのみ。色そのものが途切れなく変化しているのだから。そしてその色彩自体ひとつの色要素を別の色要素が蔽い、更に他の 色要素が包むといった入れ子状を成しており、またそれがメビウスの輪状も成していて、いつしか最低辺にある色要素が表舞台に出ている趣きなのである。平面上の 変化と重層的な変遷と回転輪廻する移ろいとが、三巴となって変幻するのだが、それだけではない。耀変を引き起こす時の光の性質もまた耀変の色彩を変えてしまう。 太陽の直射光白い紙による反射光青色の紙による反射光黄の紙による反射光による耀変面の色彩の変幻は、最早書き尽くすのは拙文では殆ど不可能に近い。まさしく 綾なす妖しい色どりであり、見つめれば魅せられて、綾なりに彩生(う)し彩失(う)く綾取られ、目つむれば危うく殺(あや)めてしまいかねぬ。
  耀変そして乳頭。それは陶磁土の器にかけられた、複雑微妙に調合された釉薬と、上昇下降急上昇急下降、烈強中弱微の火炎が、北一明氏の技と術と才気と気迫を 媒介にして成るべくして成った色彩と形状である。
  初めて観賞する者は、その乳頭の絶妙な形に感嘆し心を奪われる。次に、その色彩の突然の変幻に驚嘆し惹き込まれる。そこまでならまあ平常人であろう。 高嶺の花と魅とれている時が人生の花であろう。けれどその一線を越えてしまったら──。すなわち自らの所有物となったら、その人はもうこちらの平常人ではなくなる。 アチラへ行ってしまった人になる。越境してしまえばもう戻れない。取り子である。高嶺の花は大人しく自分の掌中には有る。それで毎日日がな一日観賞できる。 アレヤコレヤためつすがめつ舐めるように見つめたり、撫で摩るように見つめたり、そうしたりしているうちにより深く魅せられてしまう。泥沼である。病膏肓に入る。 中毒である。疑問あるか? 私が証明しておる。
  病は根が深い。こうなると、耀変は俄かに杳変と化す。耀きに眩暈されていた酔眼は、今度は杳(くら)さに眼が慣れる。お馴じみになってしまう。高嶺の花が 掌中に入って、天上の華の耀きを自らのものにしたのに、そこから始まるのは人生の華急転して容暗である。耀変があるからこそ杳変が奥深い、実に奥の深い懐を愈々 見せはじめる。天国もいいが地獄もいいぜ、どちらかと言うと地獄の方が面白そうだからなあ、とは自分の感想だが話が外れた、ここは北一明氏の珠玉作品についての 拙文であるから戻して、耀く天国は天獄となってしまう。天上天華唯華独存も、確かにいい。しかし、人間と云うのは我が儘で、何事にも飽きが来る。あるいは一処に 一生とどまってはいられない。歩みを止めて見る秋の日の黄金の落日は豪奢だが、その後の残照の空もまた捨て難い魅力がある。昏れがての空はいいものだ。 最早太陽は泣く泣く沈み、残照の光の粒子だけがまだそこかしこに散乱し、取り乱して薄ぼんやりと風景の輪郭を浮き出している。暮色から薄暮、夕暮れから誰そ彼れ、 その蒼い空。東から西へ。北から南へ尽十方天空は全き一色ではない。黒暗から蒼青を経て赤橙色まで、実に様々な色が混沌と空に漂っている。あるいは群雄割拠し、 雲も闊歩している。それを見上げている我が身を省れば、何ともわびしいけれども、それはさておき、実に味わい深い。斜陽に照らされた絢爛たる夕景色と、没落後の 宵闇の色。宵闇迫れば悩みは果てなし。僅かな時間の隔たりの君臨による、あまりに深い色彩の急変。この「僅かな時間の隔たりの君臨」の前後を同時に体現して しまったのが北一明氏の耀変の共存美ではあるまいかと私は思う。これが華麗わびという相反する概念を接合してしまった北氏の意図の隠れたひとつではあるまいか。 と、私は悩む。
  幾星霜を経て愈く出現するわびもあろう。例えば国宝の本阿弥光悦作楽焼白片身変茶碗銘不二山。勿論、当方写真で拝んだだけであるが、「わび」を感じますなあ。
  閑さや岩にしみ入る蝉の声
  古池や蛙飛びこむ水のをと
  を連想させる、古色蒼然さではある、もう一つの国産の国宝志野茶碗銘卯花墻でもそうだが、その趣きは地に沁み入るが如き歳月のわびである。
  それでは北一明作品の「わび」とは何だろう。それは天空のわび、宇宙のわびであると小生は呼んでみたい。二十世紀以前ならば、国宝のそれでよかろう。 それで十分である。が、今は二十一世紀にも十年とない世紀末である。原爆を発明してしまった二十世紀にあっては、また月へ到達してしまった今世紀後半にあっては、 「わび」の概念もまた変容を余儀なくされるのは当然であろう。そうでなければ、わびがさびついてわさびになってしまう。土、地肌という焼きものの本源に遡って 地球の誕生、更には宇宙の誕生の果てまでをも視野に入れて思考するのが二十世紀末を生きる人間の前提ではあろう。
  花鳥風月の中世近世の感覚から、二十世紀末の宇宙感覚へ。そしてここから更なる仮説の助走段階であるが、「華麗」を現在の宇宙感覚から捉え直すならば、それは 先ず銀河ということであろう。星団である。耀かしい星々。そうすると、その背景にどーんと広がる杳々たる宇宙空間こそ「わび」の対象となるかなあ。──まあそこで 出てくる概念が暗黒物質──銀河を包む見えない質量(ダークマター)である。天獄の観念を超えた天極、それが暗黒物質である、と小生は予感する。
  「この光らない物質は、重力の源になっているが、それ以外には物質に何の作用も与えず、知覚することはできない。銀河を含む大きな球状の構造(ハロー)を 形成している。
  未知の物質が宇宙を満たしている。しかもその姿を現わさない物質が見えている物質の数十倍から百倍もの質量があることがわかってきた。」
    この新しい概念をもって北一明氏の耀変作品を眺めてみると、耀変の時、非常に細かい渦巻きが無数と言ってよい程に犇めいているのがみてとれる。私なんぞ これこそがダークマターの構造じゃあるまいか、と勝手に空想してしまうのである。その渦巻きを形成している莫大なエネルギー磁場をひしひしと感じる。「わび」と 云うものが、単なる枯れたものではなく、新たなる世界認識を産み出すための静かなる契機である気がする。すなわちエネルギーの蓄積、沈潜である。とここまで来ると、 そう潜在美と云う北氏独自の美学概念が連想される。
  「観測された銀河の星の運動はダークマターを考えないと説明できない。」
  今、宇宙論の主潮流は光から闇へ移ってきている。北氏の耀変作品は、私にとって一種宇宙論の原型のような意味合いを持ってきている。途方もない想像力を かきたててくれる茶碗である。であるからして、時には途方に暮れて暮れなずむ空を見上げては、わびーわびーと呟くこともまあある。

  文中引用は『銀河宇宙オデッセイ6宇宙誕生のとき──ビッグバンに迫る』一九九◯年刊、日本放送協会より   》
         『北一明創造ニ◯周年記念  生命乃燃焼』1992年3月刊行収録

 翌年の1993年にも同じように二ページにわたって三篇を書いていた。思い出した。上記三篇を北氏が気に入ってまた書いてくれ、と言ってきたのだった。北一明の カレンダー1994年版、1995年版にも書いている。そんなに書いていたとは。北一明の「書」作品についてはこちら。
  http://web.thn.jp/kbi/kitashoron.htm
 以前にもリンクを貼ったが、北一明の記事、吉澤健「北一明こと下平昭一君の著書と資料」。
  http://www.minamishinshu.co.jp/center/series/023.PDF

 ネット、うろうろ。

《 日本における芸術の受容のされ方、そして理解のされ方。それらの問題が噴出する場として、川越の「うつわノート」 utsuwanote 小野哲平 onoteppei の個展 『小野哲平 衝動と... 》 村上隆
  https://twitter.com/takashipom/status/1119761461071548416

《 音楽を理解できておらずとも、音楽家の苦悩や限界突破、表現とはなにか、という問いかけと解答をだしているのです。音楽芸術へのかなり深い洞察が安易な ストーリーと絡まって展開しています。 》 村上隆
  https://twitter.com/takashipom/status/1119763851204014080

 リンク先のインスタを読むと、なんか『BURUTUS』特集「曜変天目」に呼応しているような。

《 「平成の三冊」時代を、私を形成した本 31人へのアンケート 》 週刊読書人ウェブ
  https://dokushojin.com/article.html?i=5338

 読んだ本は、白井聡が挙げている中沢新一『はじまりのレーニン岩波書店だけ。

《 しかし芸術作品による「対人コミュニケーション」効果が事後的かつ派生的なものにすぎず、その制作空間においては「人間と非人間界とのコミュニケーション」 が先立っているのだと、この数十年間言いつづけてきたが、海外研究者が同じことを述べはじめてやっと「認識論的転回」などと呼ばれる始末。 》 中島 智
  https://twitter.com/nakashima001/status/1120244188186955776

《 インゴルドの制作論も、ラトゥールのアクターネットワーク理論も、すでに制作者たちが述べてきたことだけれど、それらを「新たな動き」と捉えてしまう背景には、 つまりメジャーな/西欧的な思潮にしか関心がなかったということ。反省すべきはこの点にあることを認識しなければならない。 》 中島 智
  https://twitter.com/nakashima001/status/1120245969314914305

《 ロヒンギャ問題で日本とフェイスブック社が批判を受け続ける理由/一田 和樹 》 文春オンライン
  https://bunshun.jp/articles/-/11508

《 社会が段階的に権威主義化する国では、自分が権威の側にいるという全能感で権威を笠に着て批判者を恫喝する「突撃隊」的な人間が我が物顔に振る舞うようになる。 粗暴な人間ほど能力を発揮できるので、平穏な社会では粗暴さを発揮する場がない者が水を得た魚のように活躍する。 》 山崎 雅弘
  https://twitter.com/mas__yamazaki/status/1119821378352345088

《 「これからはマーケティング4.0の時代に入ります。1.0 はユーザーの要望に応えるマーケティング。2.0はユーザーの心に響くマーケティング。 3.0はユーザーのスピリット、精神性をくすぐるようなマーケティング(哲学や理念に共感)。そして、4.0は共有の価値を作る、 世界に認められるような提案をすることが日本企業にとってはとても大切です」 》 希望者はいつもタダ 奈良のトンカツ「無料食堂」が繁盛する訳
  https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190422-00000016-zdn_mkt-bus_all&p=4