再読『「敗者」の精神史』七(閑人亭日録)

 山口昌男『「敗者」の精神史』岩波書店1995年初版の再読を進める。「12 「穢い絵」の問題──大正日本の周縁化された画家たち」を読んだ。

《  さて、一九九三年秋の京都では、もう一つの興味深い展覧会が行われていた。「京の美人画展」(京都文化博物館)がそれである。(中略)百二十点にのぼる出品作を 見ていると、たしかに(土屋)麦僊の位置はどんどん後退していくのに反して甲斐庄楠音(かいのしょう ただおと)の位置がどんどん前へ押し出されて来る。
  この展覧会で特に人目を瞠らせるのは楠音の先覚者の作品だと誰しも思うであろう。(中略)
  (祇園)井特の生涯はよくわかっていないらしいが、「虎御前と蘇我十郎図」などには、明らかに「風俗画」の影響が見られる。 》 469頁上段~下段

 甲斐庄楠音祇園井特も四半世紀ほど前から気になっているが、未だ現物を観ない。
  http://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=150362
  https://www.sankei.com/west/news/181226/wst1812260025-n1.html

 月刊『芸術新潮』新潮社、1991年7月号「特集 日本画よ、何処へ  大正日本画の逆襲」を開く。当然だが、甲斐庄楠音も掲載。それから1994年3月号「特集 常識よ、 さらば! 日本近代美術の10章」を開く。「第4章 忽然と消えた南画 鉄斎だけがなぜ生き残った?」田中日佐夫が興味深い。

《 しかし、明治も十年代後半となれば、中央集権を押しすすめ、これによって富国強兵と脱亜化を達成しようとする中央政府の意思はきわめて強くなる。彼らは各地に 現実を変革し、心に桃源郷を抱く激情の人の存在をゆるさない。強権を発動する。ここでまたあえていうならば、政府が各地の自由民権運動を弾圧する時期(群馬事件などは 明治十七年)と、南画滅亡の時期がほぼぴったり一致することを想起してもらいたのである。私は南画の否定と自由民権の弾圧とは、歴史の流れの中でパラレルに起こった ことと思わざるをえないのである。 》 30頁中段~下段

《 その(富岡)鉄斎を深く意識して、セザンヌとともにおのが芸術に取りれようとしたのが、大正デモクラシーの申し子のごとき国画創作協会の創立会員、土田麦僊と 小野竹橋(喬)であったことも偶然ではあるまい。 》 30頁下段

《 しかしこの評言は、麦僊の限界を言い当てている。つまり、麦僊の画業は、次第に日常生活に向って閉じたものになり、日常生活を瓦解させても出現して来ようとする 何ものかの力に対しては、全面的に拒絶反応を示すに至るのである。 》 469頁上段

 「13 西国の人気者──久保田米僊の世界」を読んだ。以下のくだりで昨日の大ポカに気づいた。頓(ぬかずく)はネットにありました。 「頓智」で検索を思い至らなかった。
  https://www.kanjipedia.jp/kanji/0005357100

《 西行西行庵を開基し、西行桜と後に呼ばれる桜を植樹し、その下を徘徊して「ねがはくば花のもとにて春死なん」の歌を詠んだ事は、謡曲などでよく知られている。 この庵は応安五年(一三七二年)頓阿法師により再建せられたが、維新後は荒廃に帰していた。明治二十六年、この西行庵を再建したのが小文法師であった。 》 486頁 上段。

《 明治二十六年、京都府に出願して、許可を得て西行庵を再建、十一月進山式に際して小文法師が詠んだ狂句は、「ふる狸坊主となるが化けをさめ」であった。 》  486頁下段

《  さて、東京に移る少し前の米僊の姿を巧みに写し出したのは、意外にも鶯亭金升(おうてい きんしょう)である。
  金升自身もふつうの読者の視界から消えた存在である。が、最近ふとしたことから再浮上した。『新潮』一九九三年十月臨時増刊の「短歌俳句川柳一◯一年」に、金升の アンソロジー「狂句の栞」が収録され、金升について次のように紹介されている。 》 487頁上段

 『「短歌俳句川柳一◯一年』で確認。選者として掲載。彼の狂句は見当たらない。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%AF%E4%BA%AD%E9%87%91%E5%8D%87

《  米僊は生来ボーダーを容易に越える能力を身につけた人物であった。
  その辺りが、前章で取り上げた佐渡と京都しか知らなかった土田麦僊や、深くはあるが京都しか知らなかった甲斐庄楠音との違いであろう。この両者に米僊の拡がりが あれば、二人の宿命的な対立は別の形で解決を見たかも知れない。 》 489-490頁

《 ついでながら、当時刊行されていた『美術世界』という雑誌の一号から六号までの広告が、「大通世界」に載っている。天心、篁村、学界、美妙、鴎外、南翠、思軒、 三昧、石橋忍月、今泉雄作らが序を書いている画集らしいが、米僊の画はすべての号に載っている。(中略)かかわり合い方からいって、或いは米僊が編集に参加していた のかとも思われるが、実物を見ていないので確かなことは言えない。しかし、当時、東京における米僊の位置を示すものと言える。 》 496頁下段

 『美術世界』巻の一、春陽堂明治廿三年十二月廿二日刊を取り出す。序は、岡倉覚三、饗庭篁村、前田夏繁の三人が書いている。久保田米僊は「縁日圖」を載せている。 他の号でもこれと同様のほのぼのとした漫画的な画風。

《 さて、何度か強調したように、米僊は抜群の画技の持ち主であった。しかし、明治の多くの画家にあった大家志向はほとんど持ち合わせなかった。そればかりか自分が 拠って立つ場を次々にスライドさせることによって、常に未知の行為の文脈をつくり出し、時代の新しい相を切り拓く芸術を武器として定着させた。 》 503頁

 ネット、うろうろ。

《 東京のオルタナティブスペースをMAPにまとめてみた。 》 西田編集長
  https://twitter.com/_edit451/status/1209402459585536006

 昨日リンクした関内文庫も載っている。

《 本日、余命ブログ読者ら103名が原告となり、私を被告として総額5150万円を損害賠償請求してきた訴訟の判決がありました。無事、 「原告らの請求(選定当事者としての請求を含む。)をいずれも棄却する」「訴訟費用は原告らの負担とする」との判決を得ることができました。よかったです。 》  ささきりょう
  https://twitter.com/ssk_ryo/status/1209753609316917248

《 メリークリスマス 》 マキエマキ@自撮り熟女
  https://twitter.com/makiemaki50/status/1209620272443084800