『美をひらく扉』(閑人亭日録)

 大岡信『美をひらく扉』講談社一九九二年四月一日 第二刷を少し読んだ。「美を感じるとはどういうことか」。

《 私たちは単なる鑑賞者の位置から、ものを創り出す創作者の位置にまで自分自身を推し進めることによって、自分をとりまく自然的・社会的環境に対しても、また自分が接した芸術作品に対しても、言葉の最も積極的な意味において、「反応」したといえるのではないでしょうか。
  これを少々スローガン風の形式で言いかえるなら、

   「物質の発見」から
   「発見の物質化」へ。

  というふうに言えましょう。 》 24頁

《 「美を感じること」とは、結局そのようにして創造的行為とどこかで結びついているものであるでしょう。 》 25頁

《 「美を感じることとはどういうことか」という問いは、究極において、いずれにせよ「美」を越えた問題へと私たちを導きますが、どこへ誘われてゆこうと、「自家に立脚」している者にこそ、「美」は自由に解放されたその多様な姿を示すものではないでしょうか。 》 27頁

 「美術品収集の意味──東京芸大コレクションをめぐって」を読んだ。

《 それは、岡倉天心が美術学校長に就任した明治二十三年秋の当時、当代画家の忘るべからざる喫緊として、曰く古法を失わぬこと、曰く精神、曰く技術、曰く品位、曰く歴史画および浮世絵(世相画)への新しい努力を強調していたことと軌を一にするものだった。文人画はその精神の姿勢において、また堕落しきったその技術において、彼らの侮蔑の対象としかなりえなかったのだろう。 》 40頁

 じつに興味深い指摘だ。田島志一は審美書院から以下の画集を出版している。
  『文人画三大家集』明治42(1909)年5月5日発行
  『南画十大家集 上』明治42(1909)年12月8日発行
  『日本南畫集』明治42(1909)年12月28日発行
  『南画十大家集 下』明治43(1910)年6月3日発行
 先立つ明治35(1902)年に『光琳派畫集』五冊を、明治37(1904)年に『若冲名畫集』を、明治39(1906)年に『日本名畫百選』二冊、『浮世絵派畫集』五冊(~40年)を、明治40(1907)年に『圓山派畫集』二冊を出版した、その勢いで満を持して文人画の画集を立て続けに出版したのでは、と想像する。この四冊は田島志一が編輯兼発行人だから。
 彼が古典美術の編輯と発行に関わった豪華本『眞美大観』全二十冊日本眞美協會 明治32(1899)年11月25日発行~明治41(1908)年は、造本を岡倉天心が関わった高級美術雑誌『國華』を手本にしたように見受ける。同じソフトカバーだが『國華』より一回り大きい縦49センチ弱横34センチ弱。薄い『國華』に対して厚さも違う(2センチ弱)。明治35(1902)年の『光琳派畫集』では堅牢な表紙になった。
 後進の審美書院への対抗心だろうか、國華社から『南畫集』三冊が明治43(1910)年に出版された(現物は未確認)。他にも対抗かなと思われる出版物が國華社にあるが、省く。

 昼前、昨日の続き、繁茂したヒメツルソバを見えるかぎり抜く。土のう袋に詰め込んで帰宅。一汗。やれやれ。

 ネット、うろうろ。

《 小西氏:毎週開催は憲法のことを考えないサルがやることだ
  麻生氏:審議は大事だ。審議することによって、有権者に何が問題になるかが分かってくる
  西田氏:教育勅語は日本人の伝統的な価値観。日本の文化で一番大事なのは教育勅語に書いてある家族主義

  はい。何が問題なのか、わかってきました😅 》 Koichi Kawakami, 川上浩一
   https://twitter.com/koichi_kawakami/status/1653014393532342272

《 安倍元も似たような「意見」を言っていたし、ほんと「事実・史実」や「定義」に対して「思う・思わない」で否定・肯定できると思っている頓珍漢が、政治家や学識経験者にいるという吃驚人間大集合。 》 川崎ぶら
https://twitter.com/burra63/status/1652925337460940800

《 何度も書いていることですけれど、これが日本の常識に登録されるまで繰り返します。改憲派はよく「九条は現実と乖離しているから現実に合わせて条文を変えるべきだ」と言います。こんな現実離れした憲法を持つ国は世界にない、と。彼らはアメリカ合衆国憲法を読んだことがないのでしょうか。 》 内田樹
https://twitter.com/levinassien/status/1653209082394992641