『飛鳥大和 美の巡礼』八(閑人亭日録)

 栗田勇『飛鳥大和 美の巡礼』新潮社1978年初版、「十三 遊行する神々」を読んだ。「十四 ナタラージャの舞踏」を読んだ。

《 作家は、生(なま)の日常の目で、対象をみることはない。モデルをみるときも、素材の木を透視するときも、「フォルム」によってしか、現実をみることはない。 とするなら、どうして、これほど危機を孕んだ新鮮な表現がえられるのであろうか。それは、才能にあまりにもめぐまれた者だけが知る、一種の自己破壊、自己超越への 誘惑によってなのである。極端へとみずからを駆りたてる焦慮のためなのである。というのは、もともと、形=フォルムは先験的な共同体の感性にぞくすることだが、 それはまた同時に、現実をはなれては存在しない。だから、厳密にフォルムを求めることは、じつは、一回一回、現実という混沌のなかでの自己回復の作用として実現する。 ところが前提となる形は物のなかにないとするなら、それは、物と精神との格闘としてのみ表現されるからである。そこに、危ういが、一回かぎりの充実した作品がうまれる。  》 221-222頁

《 このような、典型と個性的表現の間にゆれうごいているのが、いわば造形としての観音像の、他には類をみない魅力なのではあるまいか。他の仏像ももちろん、一般に 芸術表現として、同じ問題にたちむかっているとはいえ、あくまでも、絶対を目指している点では、菩薩像とは、異なっている。菩薩とは、その本質を、聖と俗との矛盾の ただなかにおいているからである。形と内容、様式と表現といった美術の成立する二律背反をそのままテーマにしているのが観音なのである。 》 226

《 文化的に近いのは、朝鮮ばかりではない。古代においては、私たちの考えているよりも、はるかにはやく、ひろく均質的な文化が伝播していたことを想わざるをえない。  》 229頁

 栗田勇『飛鳥大和 美の巡礼』新潮社1978年初版、読了。いやあ、興奮しまくり。じつに野心的な著作だ。名著と呼びたい。それにしても、きょうの最初の引用、北一明の 創作姿勢を想起させる・・・。

 朝、源兵衛川中流、源兵衛橋上流の茶碗のカケラ、ガラス片を拾う。石垣に出てきたヒメツルソバを抜く。汗~。
 午後、ガラケーを同機種の後継機買い替える。前よりも軽いわ。現金払い。キャシュカードもマイナンバーカードも持たない現金生活・・・楽。

 ネット、うろうろ。

《 僕自身はもうすぐ出す本の中で「僕はソーシャリー・エンゲイジド・アート全盛の現代において、時代遅れの芸術至上主義者だ」とはっきり書いてるんですけどね… 》  会田誠
https://twitter.com/makotoaida/status/1538085564892606464

《 ソーシャリーエンゲイジドなんたらは、端的に、芸術ではない。まあそう思うね。 》 千葉雅也
https://twitter.com/masayachiba/status/1538105676152852480